(photo/
source)
男らしさは古くからの伝統を刻印されている。
それは単に男性的であるということではなく、男性の本質そのものであり、男性の最も完全な部分ではないにしても、その最も「高貴な」部分を指す。
男らしさとは徳であり、完成ということになる。
男は「自己制御」と同じくらい「完璧さ」や優越性を目指さなければならない。そしてまた性的影響力と心理的影響力が結びつき、腕力とたくましさが勇気や「偉大さ」を伴う、というように多くの長所が交錯している。
しかもこれは厳しい伝統であって、男の完璧さはつねになんらかの欠落によって脅かされているのだ。たとえば自信の中に巧妙に紛れ込む疑惑、期待していた成功を無に帰すかもしれないひそかな亀裂といったようなものである。
商業社会と軍事社会は同じような男らしさの理想を持つことはできないし、宮廷人と騎士は同じような男らしさの理想を持つことはできないし、あるいはまた都市住民の理想なのか農民の理想なのか、戦士の理想なのか教養人の理想なのかによって、男らしさというものはどれほど多様性に富むのであろう。
理想の男らしさというものの変遷は、男としての完璧さへの期待、文化と時代性によってそれ自体が変貌していく影響力と支配のモデルにほかならない。
男らしさは不可避的に人類学の対象であると同時に歴史的なものであり、いつしか男らしさのモデルは忘れられ、消滅し、つまらない郷愁の対象になる定めであり、ついには「男らしさ」という言葉そのものが無意味になるかもしれない。
-引用/アラン・コルバン,ジャン=ジャック・クルティーヌ,ジョルジュ・ヴィガレロ「男らしさの歴史」序文より-