毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「南昌→広東省広州市→大阪」 2013年1月10日(木)

2013-01-06 21:53:05 | 中国事情
あらもう1月10日。6日ぶりのブログ書き込みだ。
懐かしいなあ。
広州ではネットを使う時間がなく、
一昨日夜に帰宅後はインターネット接続できないパソコンを抱えて
悪戦苦闘していた。ルーターを買いに上新かマツヤ電機に行かんとイカン。
というわけで、とりあえず十三のインターネットカフェにやって来たのだ。
(ここは一年前から会員で「困ったときのカフェ頼み」をしてきたが3時間800円はもったいない。無料で図書館とか使わせてくれたらいいのに。本当に大阪市はケチくさいわ。あ、淀川区だけかな。橋下に雇われたあのヤクザ区長で有名な…

時(トキ)は金なり。
自宅のパソコンで下書きしたのをUSBメモリーに入れて
ここでコピーするという我ながら入念な準備ぶりだ。
自慢している時間ももったいないので
さっさと貼り付けまっさ(もうすっかり大阪弁に戻っている)。

「南昌→広州→大阪」その1
 1月5日(土)朝8時にオフィスが準備してくれた送迎車で南昌の昌北空港に向かった。
ドライバーは親切なミスター陳(以前保健所の身体チェックのとき通訳を買って出てくれて、視力検査のところでは英語で答えまで私に教え、検査技師に叱られていた人だ)。
普段は20分で着くところをこの日は45分かかった。前日の雪が凍ってつるつるのアイスバーン道路を行くのだ。溝にはまっている気の毒な車たちを横目で確認しつつ、ゆっくりゆっくり進まざるを得なかった。空港に着いたときミスター陳は「ふう~」とため息をつき、私は感謝と称賛を拍手で表した。それくらいの緊張したひと時だったのだ。彼は帰り道をどのように戻っていくのだろうかと、ちょっと気になった。

 中国南方航空の便は50分遅れただけで11時半にちゃんと飛んだ(中国的には順調)。機内昼食がなんか統率のとれていないメニュー(パン・カステラ・ミニトマト・ピーナッツ・ザーサイ+飲み物)だったのは残念だったがこれも小さいことだ。午後1時過ぎ、昌北空港から2時間弱で広州空港に着いた。空港には、昨年江財大を卒業して広州外語外貿大に進学した劉思ていさんと財大2年生の余立君さんが迎えに来てくれていた。ありがたいことだ。

 私の中国旅行は学生諸君のサポートなしにはあり得ない。旅行をしたいと思ってもパッケージツアーのコースから外れ、自分だけで希望のところに行くのは中国語が堪能でなければ簡単ではない。私のような「ニーハオ」レベルの人間が農村や成都・九寨溝に行けたのはひとえに彼女ら彼らの尽力のお蔭である。今回の広州市訪問も広州空港で迎えてくれた二人のお世話で楽しいものになった。さらに三年の潘梅ひょうさんも後で加わり(彼女は汽車で私より1日早く南昌を発ち、私と同じ日に広州に着いた)、まさに至れり尽くせりで(申し訳な~い!死んでお詫びを)と叫びたいくらいだったが、こうなったら恐縮せず、もはやリラックスして楽しむしかない。

 広州は暖かかった。町並みは南昌とはまるで違い、インターナショナル・シティだ。つまり、車もバイクも人々も交通ルールを守り、道路は広く、ゴミは少ない。歩道を電動車いすの人が通っているのも南昌では見られない光景だった(南昌の歩道は段差ばかり。車いすは使えない。私もしょっちゅう躓く)。市バスの車内放送の違いが可笑しかった。南昌の車内放送は、
「前のドアから乗車し、その後、後ろに移動して降車口からきちんと降りてください。」
と言う。広州市内のバスでは
「民族的道徳心を持ち、お年寄りや体の弱い人に席を譲りましょう。」
だった。南昌っていったい…。(-_-;)
 遊歩道に何十台もの卓球台があり、退職した元気な年配者たちがバリバリ元気に、と言うか見事な技で卓球をしていた。思わずカメラを向けるとやたら照れていた。別のところでは韓国のチェギ遊びと全く同じ、足で羽のついた重りを蹴っているグループもいた。みんなとても上手だ。おそらく、ほぼ全員60代以上だ。誓っていうが私はたった一度もうまく蹴られないに違いない。のろのろ歩くぐらいが精一杯だ。
 広州市では歩いていても、時折日本語会話が耳に飛び込んできたり、日本語の看板も目に入る。もちろん日本だけでなく諸外国からビジネスピープルが訪れる大商業都市なのだ。さらに近くのビジネス都市深圳と違い、広州には歴史の趣があり、落ち着いた都市生活も十分楽しめるところだ。熟年の元気な男性が緑豊かなガジュマルの街路樹の下を半袖Tシャツ姿でジョギングしているのが印象的だった。(続く)

コメント (3)
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