毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「山下飛子さん(帰国者2世)と十三で飲んだ」2013年8月13日(火)No.726

2013-08-13 19:29:32 | 中国帰国者

十三にはこういう酒場がなんぼでもある。
今回は沖縄酒場に入った。


私より1歳年上の山下さんは福建省生まれ。
1982年、先に帰国した1世の父の住む大阪に来た。
文化大革命の時、お父さんが日本人であること、お母さんが日本人の妻であり、
さらに刺繍工場の経営者であるために、攻撃対象とされ、両親とも一時、遠方の地に隠れた。

「その時、私は15歳か16歳。お金も全然ないのに、『お腹空いた~!』と泣く弟妹4人を
世話しなければならない。あの頃は人生最大のピンチやったわ」
何度も聞いた彼女の身の上話だ。
当時(1960年代後半)、日本ではビートルズやローリングストーンズ、
ジ=アニマルズなどのブリティッシュ・ロック、
アメリカのジョーン=バエズ、ピーター・ポール&メアリーといった反戦フォーク・ソングが世間を賑わし、
私もラジオの洋楽番組を聞いて、翌日学校で誰の何がヨカッタなど、
友達と歓談する呑気な日々を過ごしていたのだった。
同年代の山下さんの話をきくたびに
(ごめん。何にも知らないで呑気に過ごしていて…)と思う。


大いに飲みそうで、実はからっきしの山下さん。
山下さんのいた時代の福建省ではお酒を飲むのは男性ばかりだった。


山下さんは18歳のとき(1969年)結婚。
日本では恋愛結婚が普通の時代に突入していたが、中国福建省ではお見合いに決まっていて、
本人の気持ちは全く関係なかった。
18歳と言えば、私は高校3年生で、毎夕NHKテレビ「ひょっこりひょうたん島」を見てすぐ就寝、
夜中に起きて深夜放送を聞き、本を読んだり、妄想にふけりながら、
家族には「毎晩、受験勉強しているのである」と発表していた。
彼女の生活を想像するとき、同時に自分のその時を思い、落差を噛みしめる。

60年代後半から70年代の日本は、明らかに中国より物質的に豊かな生活をしていた。
それでも、1972年、日中国交正常化の話し合いで周恩来首相は、
日本の中国に対する戦後賠償をチャラにしてくれた。
もし、賠償金を請求していたら、そのお金で当時の中国はどれほど潤ったことだろう。
それなのに「いいよ、いいよ。日本人民も軍国主義の犠牲者だ」と寛大な態度で許してくれた。
日清戦争(甲午戦争 1894~95)で日本が中国に請求した賠償金は、
中国国家が支払える能力を遥か超えた額だった。
中国は他から借金してそれを日本に支払ったというのに。


1982年、両親の帰国から2年後に、山下さんも夫と子ども2人を連れて帰国。
言葉の不自由な夫は家で主夫をして、もっぱら彼女が外で働き、家計を支えてきた。
昨年60歳になったのを契機に、長年働いていた神戸の某ハム工場を辞めた。
しかし、65歳までは年金だけでの生活は不可能なので、
また近所の食堂で週4日パートをしているそうだ。

息子や身内以外とはあまり外で食事をしたり、飲みに行ったりする機会はない山下さん。
新しい職場の食堂で
「中国野菜なのに、なんで知らんの?」
「中華料理のメニューにあるやろ?」
とさんざん言われて、初めの一か月間はたいへん辛かったそうだ。
さらに、緊張しているときに「820円やから1020円でおつりちょうだい」などと言われ、
頭がカーッとなり、一度は「もう辞めます」と申し出たそうだ。
幸い、職場の先輩たちが特訓してくれたりして、今はだいぶ慣れてきたとのこと。
日本で生まれ育った者には当たり前とスル―できることの一つ一つが
帰国者である山下さんには、険しい山に登山するほどの作業であるのが、聞くほどに分かってくる。

しかし、私が
「たまにはみんなの前で、さんざん愚痴や文句を言いたくならない?」
と聞くと、彼女は言う。
「それしたら、自分のレベル下がるやん。これまで頑張って生きてきたことが、
全部、それで終わりになってしまう。絶対、それだけはしない。」
と。そういう言葉を聞くと、涙が噴出しそうになったが、
ぐっと堪えて十三駅前で笑って別れたのだった。
庶民って、死ぬまで頑張るんだよね。
為政者はそんな庶民の存在など全く見ていないくせに、口先だけ
「国民のみなさま」などとくそ丁寧に言う。
むかむかする。

夕方はそんなでもないが、夜になれば駅前が
人々でごった返す。十三はそんなところだ。

コメント
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