毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「『はだしのゲン』閲覧制限は平和教育の放棄である」2013年8月22日(木)No.731

2013-08-22 19:42:48 | 教育

 広島での被爆体験を描いた、漫画家の故中沢啓治さんの代表作「はだしのゲン」(全10巻)が、昨年12月から松江市内の市立小中学校の図書館で子どもたちが自由に見ることができない閉架の状態になっていることが分かった。市教育委員会が作品中の暴力描写が過激だとして、各校に閲覧の制限を求めた。
―朝日デジタル:2013/8/17 http://digital.asahi.com/articles/osk201308160095.html?ref=reca



市教委が判断した「過激な暴力描写」部分は下の4コマだ。

しかし、これらは中国では、小さい子どもでも知っている日本軍の蛮行のごく一部にすぎない。
だからこそ、中国の人々は大人から子供まで、今でも心で血の涙を流し続けているのだ。
肝心の加害者側の日本の子どもたちは一体いつ・どこでそれを学ぶのか。
こういう「過激な暴力」は「描写が過激だから」問題なのではなく、
「暴力行為そのもの」が問題なのである。

「発達段階に応じた教育を」と言う人たちがいるが、
その人たちは、いつなら歴史の事実を直視できる段階に日本人が発達するというのだろう。
人間の成長過程において、どんな辛い事実でも、どんな小さい子供でも、
せめてその一端を知らなければならない。

結局、「子どもに知らせるには配慮を要する」とは、
「日本人に知らせるのは配慮を要する」ということではないか。
つまり、「南京大虐殺」や「盧溝橋事件」同様、「はだしのゲン」に描かれた事もまた、
なかったこととして葬り去られてしまうのではないか。
そう思うのにも根拠があって、
「昨年8月、『ありもしない日本軍の蛮行が描かれており、子どもたちに間違った歴史認識を植え付ける』として、小中学校からの作品の撤去を求める陳情が市民から市議会にあった。」(同朝日デジタル) ということである。

こうして都合の悪いことは
「なかった、なかった!」と百万回叫んでなかったことにしようというのが、
今日の日本のある傾向の人々の仕業なのだ。
これこそが、世界の人々に対する蛮行でなくてなんであろうか。
日本の子どもたちは、あったことをあったこととして、ちゃんと受け止めることができる。
そして、これから二度とこうした蛮行をしないことを心に刻むことができる。
あったことを、あったこととしてきちんと教えさえすればいいのである。


コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする