毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「学生たち・先生方とBBQ」No.1476

2015-10-05 23:08:31 | 中国事情

↑今日、タクシーでBBQパーティーに出かけた趙王河公園内の蓮池。

 

国慶節休暇のことを中国ではゴールデンウィークと呼んでいます。

まるまる一週間も休めるのは、他には春節しかありません。

そんなに休日が続くとさぞや退屈では?とお思いでしょう。

ところがどっこい、学生たちの勉強特訓やらが毎日チョコチョコ入ったり、

今日のようにバーベキューパーティーに誘われたりで、

一日中ダラーッと過ごせる日はないんですよ。


今日は最高気温27℃の夏日。

日本語学科のほとんどの学生たちにとっては初めての戸外でのBBQです。

これをセッティングしてくださったのは、英語学科のフィリピン人の3先生方。

この間の誕生日会と言い、ほんとうに気さくで親切、陽気な方がたです。

フィリピンのお国柄でしょうか。

下右はEVE先生、真ん中英語学科の学生、左はシージェイ先生。

 

右4人は日本語学科の4年生たち。

国慶節休みもずっと寮に残っていたり、もう学校に戻って来たりした人たちです。

皆、今日は、日本語、英語という2つの外国語に囲まれて初めはかなり緊張気味でした。

 

次第にリラックスしてきたものの、あまり食べずに、大学に戻るや否や食堂に走っていった人も

いたのです。遠慮したのか、ふだんと違う味だからかな。

 

菏澤市では牡丹公園という、4月に全国的な牡丹花博が開かれる公園が有名ですが、

この趙王河公園も近年整備が進んできた大公園です。

人影はまばらです。

 

日本語学科の森先生は、私の誕生日会ではブレイクダンスを、

今日はみんなに縄跳びを勧め、自分も率先して跳ぶというスポーツ好きな青年です。

この休みは毎日、キャンパスの運動場で夜までバスケットボールをしていると、

風の噂に聞きました。

今日は私のために、

アサヒスーパードライをプレゼントしてくださるという気配りの先生です。

日本から持ってきたのでしょうか?ネットで買ったのでしょうか。

いずれにしても、ありがたや、ありがたや

シージェイ先生もトライするも、縄が短くてかなり難しいです。

 

キャンパスに戻り、すぐまた受験勉強に戻った4年生。

夕方、また第一食堂(最も古い食堂)で再会し、

一緒に晩御飯を食べた楊芬さん(左)と王康さん(右)。

昼寝をしていないので、やや疲れ気味です。

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「途中、徐州を横に見て菏澤に来た」No.1475

2015-10-05 00:42:31 | 反戦平和

8月28日に青島から車で菏澤まで8時間弱かけて到着したのですが、

途中、「済南まで○○km」の標識を目にしました。

済南近辺は父母が1946年2月まで4年間暮らしたところです。

父は兵役に服した後、この地に定住しようとしたようで、

当時の日本軍の下請け石炭会社に就職して、

妻を娶るため一時帰国し、それに引っかかった母が日本国内から

朝鮮半島、中国東北地方(当時は満州帝国)を経て、中国山東省まで、

長い長い時間、汽車に乗ってやってきました。

それが1941年か1942年です。

(とうとう来た。70年前に両親がいたところに)と思うと心拍数が上がりました。

気候が北海道に似ていて、二人とも助かっただろうと思います。

 

さらに菏澤に向けて自動車は進み、

今度は「徐州○○km」の文字が目に飛び込んできました。

「徐州 徐州と人馬は進む」のあの徐州です。

戦争の時代と戦地が一気に皮膚感覚に近づいた気がしました。

よその国に侵略しておきながら手前勝手な和平提案をし、

戦局が日本軍に優勢になると、過酷な条件や賠償金などを加重していくという、

中国側にとっては屈辱以外の何物でもない「和平交渉」は、

1937年11月から、あの南京大虐殺を経て、翌年1月まで続きました。

それでも、講和内容の詳細にについての照会という手段で粘る国民党政府に対し、

「爾後、国民党政府を対手とせず」(1938年1月16日)と一方的に交渉を打ち切り、

いつ果てるとも知れぬ、歯止めなき戦争に突き進んでいったのが、

近衛文麿内閣です。

近衛内閣は翌々日の1938年1月18日、

「爾後国民政府を対手とせずと云うのは同政府の否認よりも強いものである。……

今 回は国際法上新例を開いて国民政府を否認すると共に之を抹殺せんとするのである。

……宣戦 布告もありえぬわけである」

という補足声明を出しました。

これを読むと、どれほど当時の日本政府が思い上がっていたかがよく分かります。

 

徐州会戦はこのような状況のもと、

1937年12月から1938年6月にかけて日本軍が行った作戦です。

今私がいる菏澤にも下の地図では第16師団が5月14日に来ています。

 

第16師団の酒井支隊、5/14と書いてあるところです。

 

 

下は黄河氾濫地域を渡る中国軍。

黄河の氾濫で日本軍の侵攻をストップさせたのだそうです。

 

 中国の人たちが、戦争のことを忘れられないのは、今も生活しているこの場所で、

自分の身うちが、知人が、あの戦争で酷い目に遭っているからです。

日本では、自分の生活している街や村が、攻め込まれたことがありません。

ただ沖縄を除いて。

だから、戦争のことを、まるで江戸時代の出来事のように思えるのです。

 

それでも徐州は、今、こんな都市になっているそうです。

    

コメント (2)
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