毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「口だけ、自分だけの市民から変わるとき」No.1611

2016-03-10 20:47:01 | 日本事情

「日本の市民運動は政治と選挙にかかわらない古き体質を保持してきた」

と座間宮ガレイさんに指摘されたら、

一瞬、(あれ、そうだったかな?)と違和感を抱きました。

私が以前住んでいた尼崎市では、

「無所属市民派」という言葉がひと時隆盛を誇ったときもあり、

現職議員でそのグループ出身の人もいます。

しかし、確かに、組織力には敵わないともよく聞きました。

市民運動が長期的に次々と候補者を立てて、議会に送り出すには

土台もシステムも確固としたものがなく、

一人ひとりの信念と熱情に頼るだけだったと思います。

それは社会的に雰囲気が醸成されていれば当選の果実も得られますが、

今はとんでもない右傾化の嵐真っただ中です。

そこを掘り起し、流れを変え、勢力を広げるには、

どうしても一人ひとりがバラバラではない動きと組織が必要です。

 

旧日本社会党は総評系組合の推薦を受けていた時、常に野党第一党でした。

組合員の中にはそんなに信念がないくせに、

「組合推薦だから」と投票する人がいたのが当時の私には

どうしても納得できませんでした。

しかし、組合の組織力は確かに野党勢力形成の強い力になっていました。

投票はもちろん、選挙の手伝い、カンパ金、支援物資など、

組合はさまざまな援助を選挙候補者に行っていました。

私はほぼそういうことをしたことがありません。

せいぜい、「信念を持って一票を投じる」に留まってきた人生でした。

 

今、危機感を持つ市民一人ひとりが発揮する力としては、

「信念を持って一票」だけでは決定的に不十分です。

もう、日本は崖っぷちですので、

信念と熱情は今、最大限システマチックにフル活用されなければならないでしょう。

選挙に勝つには、お金、動ける人が沢山要るのですから、

まず、私が山東省でできるのは、貧者の一灯、お金のカンパです。

ミナセンが関西で立ち上がってきているのを、遠い山東省で、

祈るような気持ちで見ています。

 

戦争法案に反対して選挙に立つ政治家を支え切ることだけに、

神経を注ぎましょう。

これは平和を望む国民の義務です。

一人ひとりが口先だけの社会批判からの脱皮を。

ミナセンが近くで声を上げたら駆け付けてください。

(遠い山東省でエラそうに)と思わないでくださいね。

ブログに書くことも私ができる細やかな一つなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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