命の移ろいを儚く感じるとともに、いや、だから大丈夫だと思う。
鴨長明さんが千年も前に喝破した"行く川の流れは絶えずしてもとの水にあらず"
人も朝に生まれ、夕刻に死に、家も、街並みも、一つとして変わらないものはない。
しかし、この命は連綿と次の命に繋がっている。
変わっていくものの向こうに変わらないものがある。
だから、大丈夫だと思う。
草木を見るとすうっと邪気が収まり、
淡々と明日の夜明けを待とうという気になる。ブランニュー・デイを。
⤵昨秋、川の傍に咲いていたホシアサガオ
枯れた後の種を持ち帰って、春に裏庭の北の端にパラパラ蒔いたら
たくさん発芽した。
6月に入り、つるが出てきたので支柱を立て、成長を待っている。
川の傍で可憐に咲いていたあの花をこの庭で見ることができるだろうか。
季節とは無関係にあくせく生きてきた私だが、
ここにきて秋を待つ気持ちが膨らんできた。
昨年10月に挿し木したローレル、秋に挿し木は無理かなとも思ったが、
5月初めに確認するとちゃんと根が出ていた。⤵
今はこんな感じですくすくと育っている。⤵
もう少し若葉が濃く固くなったら欲しい人にあげようと思う。
⤵母の樹は切ったところから四方に枝を出して庭を一層狭苦しくしているが、
私は決して文句を言わず、葉を千切ってシチューなんかに使わせてもらっている。
他にも花が枯れた後に挿し木したガクアジサイが、3年の時を経て遂に開花した。
咲いたと言ってもなんか弱弱しいけど、
日当たりの良い息子の店に移さなかったら今年も咲かなかったかもしれない。
⤵2年前、某所で息も絶え絶えだったところを救出してきたドクダミも、
今は着実に根を張っている。
三つ葉、ムラサキツユクサ、笹、レモンバームなどいずれも生命力の強い植物たちに混じり、
花も咲かせ、ドクダミ茶として私の命の糧になってくれているありがたい存在だ。
街に棲んでいても、自然の命をいただき、自然の片隅に居させてもらっている。
命は繋がっている。
私の命はそう遠くない未来に尽きるだろう。
でも、大丈夫だ。
命は繋がっている。
私も4日前、親しい友人を亡くしました。
数年前から、何人かで集まってささやかな読書会をしているのですが、その友人は先月までその会に参加し、また、体調が優れず出席できないときも、レポートを書いて提出した人でした。
今年3月の会にもしんどくて来られなかったのですが、〈パレスチナ問題を考える〉をテーマに提出した彼女のレポートは「なぜ「『ホロコースト犠牲者の国』がパレスチナを執拗に迫害するのか?」に焦点を当て、イスラエルを建国したシオニストたちとホロコーストの犠牲になったヨーロッパのユダヤ人たちは同一ではない、と歴史を遡って検証するものでした。
もう、彼女に会えないのは本当に寂しいです。
あの世で、また出会い、議論することを楽しみにして、この世における自分の残りの時間をいつものように、淡々と生きて行くしかありません。
命の繋がりを心に感じながら……。
毎日来てくれている曾孫に何とか癒されています。
子ども・孫・曾孫と、確かに命は繋がっていることを改めて有り難いことだと思う毎日です。
ドクダミ茶は肌を守ってくれるようですね。全身のお肌が健康になりますように。