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日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「今日、渡嘉敷島で集団自決」No.1904

2017-03-28 22:29:29 | 我が心の沖縄

↑Makoto YasuさんのFB写真をお借りしました。

1945年の今日3月28日、

慶良間諸島の渡嘉敷島で集団自決があった日です。

米軍は4月1日に沖縄本島中部読谷村に上陸する前に、

まず南方の島々から攻撃を開始し、

3月27日に渡嘉敷島に上陸したとのこと。

集団自決があったのはその翌日です。

 

戦後、ずっと経ってから沖縄戦で「住民虐殺」はなかったとしたり、

 文部省が「集団自決に日本軍が関わっていた」

 という教科書記載を削ろうとしたりするなど、

 沖縄の戦争の歴史を改ざんする動きが出てきて、

沖縄県民たちはそれに真っ向から対立しています。

 当時、本当はどんなことがあったのでしょう

 2013年5月の新聞「うずみ火」に渡嘉敷島レポートがあり、

 渡嘉敷島で集団自決の現場にいた体験者の話が載っているので、

貴重な歴史資料として、皆さんとシェアしたいと思います。

(記事がやや長く、2回に分けて掲載させていただきます)。


↑Makoto YasuさんのFB写真をお借りしました。

ーー沖縄・慶良間諸島68年目の「慰霊の日」ーーうずみ火・栗原佳子

強いられた死 遺族訪ねて

 太平洋戦争中、国内で唯一、住民を巻き込んだ地上戦が展開された沖縄戦。米軍は沖縄本島に先駆け、慶良間諸島に上陸、島の住民たちは日本軍の命令によって「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた。犠牲者は約700人。このうち渡嘉敷島では「集団自決」のあった3月28日、村主催の慰霊祭が開かれた。遺族らは犠牲者の名を刻んだ白玉之塔に献花、黙とうし、反戦平和と史実の継承を誓った。(栗原佳子)

 

サンゴ礁の海が広がる慶良間諸島。

那覇市の西方30㌔から40㌔に位置し、太平洋戦争末期には

「海の特攻隊」陸軍海上挺進戦隊が配備された。

座間味島に第一戦隊、阿嘉・慶留間島に第二戦隊、

そして渡嘉敷島に第三戦隊。

沖縄本島に上陸する米軍を背後から特攻艇で奇襲するという作戦だ。

 

しかし、米軍は慶良間諸島を最初に攻略、

1945(昭和20)年3月26日、座間味島、阿嘉島、慶留間島、

翌27日には渡嘉敷島に上陸した。

沖縄本島での戦闘に備え、投錨地を確保する狙いだったとされる。

日本軍は自ら特攻艇を破壊、想定外の陸戦に転じていった。

 

渡嘉敷島では米軍が上陸した夜、壕に避難していた住民たちに、

「北山(ニシヤマ)に集合せよ」という軍命令が出た。

北山は、南北に長い渡嘉敷島の北端にあり、日本軍は米軍上陸に伴い、

この山中に陣地を移動していた。

 

住民たちは土砂降りの中、何時間もかけて北山へたどりついた。

のちに「玉砕場」と呼ばれる軍陣地の背後の谷間で、

防衛隊員が村長に伝令した直後、「集団自決」がはじまった。

手りゅう弾の多くは不発で、残された人々は、

ナタやカミソリなどの生活用具、さらには石や小枝などを手にとり、死に急いだ。

軍の方針は「軍官民共生共死」

米軍に投降するのを恐れ、住民に「鬼畜米英」の恐怖を叩き込んだ。

 

幼い目に映った戦世

 村は「集団自決」が起きたこの3月28日を「慰霊の日」と定めている。

77年の三十三回忌のあとは自由参拝形式をとっていたが、

新村長の方針で、昨年、村主催の慰霊祭が復活した。

 

戦世(いくさゆ)のあわり、忘(わし)てぃ忘らりみ

(沖縄戦の苦しみ、忘れようにも忘れられない)」――。

渡嘉敷港を見下ろす白玉之塔。

遺族代表として新崎直恒さん(74)=那覇市=があいさつに立った。

犠牲者を祀る塔には、母と2人の妹の名も刻まれている。

その春、一緒に国民学校に入学するはずだった4人の同級生や

可愛がってくれた親戚や近所の人たちも。

 

半農半漁の静かな島に日本軍が駐留するようになったのは、

前年の44(昭和19)年9月。村の生活は激変した。

将兵は民家に分宿、船は徴用され、

小学生まで特攻艇を隠す壕を掘るため駆り出された。

 

45年3月23日、突如、米軍の空襲がはじまった。

米艦船が慶良間海峡を埋め尽くし、艦砲射撃も加わる。

そして27日、上陸。

大人たちに遅れないよう、6歳の新崎さんは必死に自分の足で後を追った。

 途中、濁流に飲まれそうになりながらもようやく北山の集合場所へ。

同級生らと無事を喜び合ったのも束の間、

陣取った上のほうで手りゅう弾が爆発した。

「空をかき消す悲壮の声と共に騒然となり大混乱となりました」

「飛び散る血痕、頭部に破片が当たり半狂乱で倒れた女性。

言葉で言い尽くせぬ、想像を絶する無惨な集団自決が

地獄絵図として行われました」――。


 新崎さん家族4人は親戚の輪に加わった。

手りゅう弾は不発。

集団で修羅場を脱出したが、

翌朝、疲労困憊して眠っているところに砲弾が直撃した。

母と下の妹(3カ月)が即死。

上の妹(3つ)は片腕に重傷を負い、1週間後に亡くなった。


戦争責任 全て国に

 戦後、教師の道を歩んだ新崎さん。

体験を語ることはほとんどなかったが、

2007年の「教科書問題」が沈黙を破らせた。

文部科学省が高校歴史教科書の「集団自決」の記述から、

軍の強制性を示す文言を削除させるという史実歪曲の動き。

新崎さんはこの日の追悼の言葉でも、はっきりとこう述べた。

  

「『集団自決』がなぜ起こったか。軍命により北山に集められた。

海上挺身第三戦隊の駐屯がなければ米軍の上陸はなかった。

軍がいなければ、手榴弾は配られなかった。

手榴弾がなければ悲惨な集団自決は起こらなかった。

そのことは歴史的事実であり、戦争責任はすべて国家にある」

 

 戦前に回帰していくようないまの社会情勢に強い懸念を持つ新崎さん。

「『戦争を放棄し戦力を保持しない』、

世界に誇れる国の最高法規である『日本国憲法を擁護する』ことが、

これからの平和国家の礎である」と締めくくった。

 

叫んだ「命どぅ宝」

 慰霊祭終了後、何人もの友人知人が駆け寄り、ねぎらった。

同級生の吉川嘉勝さん(74)も

「直恒、いいあいさつだった」と肩を抱いた。

同じ教育の道に進んだ親戚同士。

「玉砕場」では、同じ円陣の中にいた。

 手りゅう弾がなかなか爆発せず、追い詰められていく大人たち。

何百人もが死に向かっていく異様な空気を破ったのは、母の叫びだった。

「手りゅう弾を捨てなさい。人間は生きられる間は生きるべきだ。

『命どぅ宝』だよ」と。

 2007年の教科書問題。

その年9月29日に開かれた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」で

吉川さんは渡嘉敷島の体験者を代表して証言した。

母の言葉を再現し、そして

「日本軍の命令、誘導、強制、指示などの関与がなければ

『集団自決』は絶対起こっていません。事実は厳然としてある」

と力を込めた。

 慰霊祭の2日前、文科省が高校教科書の検定結果を公表した。

執筆者らの努力で表現は前進したが、

2007年の県民大会で決議した「検定意見の撤回」はいまも実現していない。

吉川さんもまた、戦争の時代を思い起こさせるいまの危うい空気を憂えている。

 (続く)

ーーー引用ここまで 

↑Makoto YasuさんのFB写真をお借りしました。

 

 

 

 

 


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2 コメント

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戦争責任 (天空)
2017-03-29 14:36:51
戦争責任を天皇がとって、そのうえで天皇制を廃止すべきですね
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戦争責任は (ブルーはーと)
2017-04-03 01:58:04
天空さん
先の戦争責任は先の天皇が取るべきでした。あの人は、結局何の責任も取らず、沖縄をアメリカに差し出して、あとは稲の研究だか何だか知らないけど、ブラブラして一生を終えたんですよね。
今の天皇や皇太子などは、もし天皇制が廃止になったら、案外喜ぶんじゃないかと思います。変な職業について嫌々やっているといった気配をふと感じるもので。だって、普通の人間が就くような仕事じゃありませんものね。私も天皇制は当然廃止するべきだと思います。天皇家の財産がとんでもない巨額な数値だということが、全てを物語っています。
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