今日はフミちゃん、雅子さんと
数年ぶりに李さんのお宅にお見舞いに行きました。
中国からの帰国者(中国残留日本人)の李さんは、
私が中国に行って日本語教師になる2010年まで、
近畿中国帰国者支援交流センターで日本語を教えていた学生でした。
学生と言っても今年74歳の、人生の先輩です。
李さんの連れ合いの素媛さんが2011年7月に大怪我をして、
二人の生活は一変しました。
その大怪我のいきさつも悲惨です。
中国貴州に住む娘さんの急死に遭遇した李さん夫妻は貴州に飛んで行き、
葬式の後、傷心を抱えて北京まで戻ってきましたが、
素媛さんが手すりのないホテルの階段から落ちて頭蓋骨を二ヶ所骨折し、
一時意識不明の重態になったのです。
李さんのことを紹介するとき、私はいつも
(どうして神様はこんなに李さんを苛めるのか)と思います。
それなのに李さんは今日も、
「今は皆さんのおかげで、妻がすばらしい病院で治療やリハビリを受けられます。
私は大満足です。」と言うので、私はやるせない気持ちになりました。
今日は数年ぶりでしたので、
李さん(右端)は私の大好きな太刀魚のてんぷらや、きくらげの炒め物など、
思い切りご馳走を作って待っていてくださって、
中国式おもてなしのものすごさに私は胸がいっぱいになりました。
それでも撮影用に微笑む私たちです。
李さんがどのような人生を歩んでこられたか、
かつて作文に書いてもらったことがありますので、
ここでご紹介します。まだ、素媛さんが怪我する前のことです。
---「我が人生」 李達夫
〈誕生〉
私は1943年6月27日中国吉林省吉林市で、
戦前の中華民国官費派遣生として
旧東北帝国大学に留学し、ハルビン市第一中学の教師をしていた父と、
日本人の母の間の三男として生まれました。
二人の姉と二人の兄がいる五番目の末っ子です。
私が生まれたとき母は、「この子は日本人です。」と言ったそうです。
母は自分の五人の子どものうち、
少なくとも二人は日本国籍を持たせたかったのでしょう。
一番上の姉と一番下の私が日本人として、
当時の満州国駐在日本大使館に戸籍登録されました。
〈母の教え〉
母は幼い私に、「さくら さくら」の歌を教えてくれました。
今でもこの歌を歌うとき、母の美しく艶やかな歌声が心に浮かびます。
初めて学んだ文字も「さくら」です。
私は自分自身が日本人であることを常に意識して生きてきました。
幼時より日本人の母に大和民族として厳格な伝統教育を受けて育ったからです。
勤労や奉仕の精神は毎日教えられました。
誠実さ、我慢強さ、勤労の心、他人に尽くすこと、これらは全て生活の中で、
あるいは勉強の中で、母から人生の教訓として教わったものであり、
ずっと宝物として私の心の中に存在し続けています。
そうした母の教育のおかげで、私は中国にいたとき小学生の頃から
学習の成績もよく、順調に高校を卒業して吉林工業大学を受験しました。
高校生のときの私はアイスホッケーの選手でした。
吉林工大を受験したのも、その大学がアイスホッケーの名門校であり、
そこでアイスホッケーを続けたかったからです。
しかし、試験には合格しましたが、入学申し込みに行った時、
受付で「政治審査不合格」と言われ、入学を許可されませんでした。
そのとき母は、
「大丈夫。大学に入れても入れなくても、どちらでもいいの。
何でも自分ができることを一生懸命したらいいの。
一番大切なのは、人間の尊厳なんだから。」
と教え諭してくれました。
〈文化大革命〉
母の言葉を胸に刻み、私は共産党の号令に応じて農村に行き、農場で働きました。
身体も丈夫で仕事をこなす能力もありましたが、どんなにがんばっても
「日本の餓鬼」、「危険分子」と言われ、
これが後には「日本のスパイの子」になっていきました。
そしてさらには、母が「日本のスパイ」という罪名を着せられ、
7年間も拘留されることになってしまったのです。
文化大革命の最中、私たち兄弟姉妹五人は市中を引き回され、批判され、
ありとあらゆる屈辱を受け、罵られました。
そのとき私は、自分が日本人であることに誇りを持っていました。
ゆえに中国人から屈辱的な目に遭わされるたびに、
逆に、自分の心中深いところで、熱い思いに揺さぶられたものです。
1962年に農場に入ってから13年間、
毎日、毎日、顔は地面に向きっぱなし、背中は空に向きっぱなしで、
たいへん体力を消耗する仕事が続きました。
でも、主食はとうもろこしの粉と山菜を混ぜたものですから、
その時の私の夢は、純粋にとうもろこしの粉だけで作られた饅頭を
腹いっぱい食べることでした。
当時中国では、いろいろな政治運動がひっきりなしに行われ、
そのたびに違う対象の者を懲らしめるのです。
私は日本の関係者だということで苛められました。
毎日小心翼々、びくびくしながら過ごしていました。
今でもこの頃の思い出を語るとき、つらく深い痛みと悲しみで、
胸が締め付けられます。
〈友人・妻との出会い〉
小学生の頃から高校までずっと母に誠実と勤労の教訓を受けていたために、
長春、吉林、延吉の学校時代と職場で勤めた60年間を通じて、
私にはたくさんの友達がいました。
今でも私はよく、友達と一緒に勉強したこと、
アイスホッケーの試合をしたこと、
みんなと別れたときのことなどを、その時々の友達の顔とともに思い浮かべます。
そんな中にこんな友人もいました。文革後期のことです。
私は日本関係者だという理由で、
彼は中国人でしたが、会社経営をしていたので
「走資派」(資本主義一派のもの)という評価が下され、
一緒に「牛棚」(農場内の監獄)に入れられていました。
私は日常の農場生活で友情厚い仲間を得ていたので、
仕事の後で審問を受けず無事に牛棚に戻れましたが、
「走資派」は、毎日紅衛兵に審問されました。
審問のとき、紅衛兵は必ず、構わず殴ったり蹴ったりします。
そのため、「走資派」の審問前に、私は自分の服を脱いで
彼に着せてあげていました。
長い間、一緒に生活する中で、彼と私との間には次第に友情が培われ、
仲のよい友達になりました。
文化大革命が完結した後、現実路線のおかげで、
「走資派」は、また元の職場に復帰できました。
やがて私も農場の農工から州政府の職員に転職できました。
もうひとつ、私は友人のおかげで妻とめぐり合うことができました。
当時私は、「日本鬼子」と呼ばれて様々な制限をされ、
差別・軽蔑の目で見られて暮らしていました。
妻と初めて出会った場所は牛棚(農場の監獄)です。
妻は中国人ですが、友人に私を紹介されて、
恐れることなく監獄に閉じ込められていた日本人の私に会いに来てくれました。
そして私の丈夫な身体と正直な性格と、勤労の心をすばらしいと思ってくれました。
そのときから今まで40年の月日が流れました。
これは幸せな楽しい40年です。
現在、私と妻には息子と娘が一人ずついます。
息子は横浜に住み、娘は中国で日本語を教えています。
私は十分満足しています。
〈「資本主義の国」日本〉
私は生まれたときから中国で生活し、成長してきたので、
様々な面で中国の影響を受けてきました。
特に、中国共産党は日本が資本主義の国であり、
資本主義とはとても恐ろしいものだとか、
腐敗した社会制度だとかいう教育をしていたので、
私自身もそうした意識を持っていました。
そういうわけで、私はとても不安な気持ちで日本の大阪にやってきました。
2003年4月のことです。
日本についてぜんぜん知らないものですから、胸がどきどきしていました。
〈帰国後の日本の印象〉
しかし、日本に来て様々な物事を見たり体験したりする間に、
私の考えはすっかり変わっていきました。
知人であろうと、見ず知らずの人であろうと、
出会った人々がみな、笑顔で迎えたり、挨拶したりする様子は
とても気持ちよく感じました。
親切な人が多い、礼儀正しい、交通がとても便利だ、
町がきれいで環境がいい、公衆道徳やマナーを守るなど、
日本のすばらしいことの中で、特に大切なのは、
「人権を尊重し、自由を守る国だ」ということです。
これは、日本が誇りにすべきことです。
日本の「人権と自由」は、中国と比べものにならないものです。
さらに日本人は、戦後原爆で焼け出された廃墟から出発し、
瀬戸大橋を作り、新幹線を走らせました。
これらは日本人の強い精神力を表すものです。
私はこうした社会を実現した日本国民に心から敬意を抱いています。
日本では何をするにも法律や規則を守ってことを進め、
私利私欲を挟んだりすることもありません。
ですから私は、今はもう日本という美しい祖国が大好きになりました。
〈現在の生活〉
帰国後の6年間、政府は生活の隅々まで心を配ってくれました。
皆様の残留孤児及び家族に対する深い心遣いと援護に大変感謝しております。
帰国してから私は、ずっと大阪YWCAで日本語の勉強をしています。
今、67歳を過ぎ、明るく、暖かい教室で先生の講義を聞いたり、
良き師、良き友と知り合ったり、
本当に世界一の幸せ者です。
周りの人たちは、私や家族に人としての尊厳を、
また、この上ない温かさと幸福を感じさせてくれました。
〈最後に〉
私は日本に来てから、生活面でとても良くなったと思います。
でも、精神面は何か物足りないような感じがしています。
今思えば、私にとってやっぱり中国は故郷です。
日本人として満州国で生まれた私を育ててくれたのは、
中国の人々であり、中国の大地でした。
60年間、中国で生きてきた私は、
中国を尊敬し熱愛しているというか、何と言って好いか分かりませんが、
心の底から感謝しています。
私が自分の全てをかけて熱望するのは、ただひとつ、
『中日永遠友好!』です。
これからも、日本社会に溶け込んで、自分の思想、道徳、教養を高め、
自分の悪い生活習慣を改めて、社会環境や時代の趨勢を見極め、
順応すべきところはしていく所存です。
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この作文を書いた8年前は、妻の素媛さんもお元気で、
李さんがYWCA(帰国者支援センターがあるところ)から団地の家に帰り、
駐輪場に自転車を置いてドアを開けると、
「お帰り」の言葉とともに、
美味しい水餃子が出来上がって、李さんに差し出されたそうです。
そろそろ李さんが帰ってくる頃だと思って、
ベランダから李さんの姿が見えるのを待っていたのだと。
今、李さんは、素媛さんの介護をしながら、
妻が自分の人生の全てをかけて自分に尽くしてくれていたことを
日々痛感していると語っていました。
下は李さんご夫婦に関するブログ記事です。
「李達夫さんのこと」 2011年8月9日(火)No.180
「日本の入院先が見つからない!」2011年8月20日(土) No.181
「李さんから」2011年8月22日 No.182
「李さんその後」2011年8月28日(日) No.184
「李さん夫婦・その後」2011年9月10日(土) No.190
こきおばさんも李さんも中国の「大地の子」ですね。
戦争がそうさせたと言っても、子どもには関係ないことで、心にはかけがえのない宝物の思い出が刻まれていることでしょう。
「中国も日本もどちらも私の祖国です」という言葉は帰国者の方々から何度も聞きました。
夫婦なら別れることもできましょうが、中国と日本は離婚もできない切っても切れない仲ですので、日本政府も無益な対立扇動をやめて、中国やアジア諸国の友好国として認められる方向性を定めてほしいものです。
取りあえず、政府がどうでも自分のできることをするしかありません。
明日、また出発します。これが最後の一年と思い、気を引き締めてがんばってきますね。
生まれた長春・お店のあった吉林・ハルピンを懐かしく思い出しました。
私にとっても生まれ故郷の中国は今も故郷で、心のどこかに中国の大地に育てられた思いが残っています。
李さん関係の5つのページも、読ませていただきますね。
ブルーハートさまのお仕事が、そしてお人柄が外交官以上の働きをされている!と改めて感じ入っています。