毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「ある中国帰国者2世の人生」2015年5月20日(水)No.1365

2015-05-20 23:26:33 | 中国帰国者

大阪自由大学とアジアセンター(在淡路)の共催による

連続講座「東アジアを考える」の第3期「戦後70年・・アジアと日本の現実」

で帰国者が自分の人生を語るシリーズの2回目が今日、アジアセンターであった。

今日は、このブログに何度も登場している帰国者2世、吉林省長春出身の

青木雅子さんが話をした。

下は始まる前のスナップ。

4月の語り部、西井澄さんも参加して青木さんをバックアップしてくれた。

後ろの方に、「帰国者の友」のユミコさんの顔も見え、青木さん大感激!

 

青木さんのお父さんは戦後すぐに大連の病院で生まれ、

祖母(お父さんのお母さん)は子どもを産んですぐに亡くなった。

たまたま、お父さんの養母もそこで赤ん坊を産んだところだったが、その赤ん坊も

すぐに亡くなった。

養母は生まれたばかりの日本人の赤ん坊にお乳をあげ、

ついには引き取って育てることにした。

周りの誰にも、日本人の赤ん坊だとは口外しなかった。

青木さんが中学一年か二年生のとき、春節で親戚から楽しく帰ってくると、

部屋の隅のベッドの上で、お父さんがコートを抱きしめて泣いていた。

お母さんが部屋の外に青木さんを連れて行き、ひそひそ声で、

お父さんが日本人であることを養父母に告げられ、ショックで泣いていると語った。

家族はその話が嘘だと思い(たくて)、関係窓口に問い合わせたが、やはりそれは事実だった。

 

大人になって職場恋愛し、結婚の意思を固めたが、自分が日本人であると言えなかった。

母に急かされて、ついに、青木さんは相手の男性とその両親を前に、

それを告白せざるを得なくなった。

相手の男性は一人っ子で、そのお母さんは

「大切な一人息子を、日本人なんかと結婚させたくない」といい、

二人は、職場で毎日顔を合わせては泣き、もう別れるしかないと諦めかけたが、

そんなとき、相手のお父さんが、

「君は半分日本人だが、半分は中国人だ。

これからの人生は、二人で作って行きなさい。」

と結婚を認めてくれた(ここで青木さん、涙)。

子どもが生まれて4年経った頃、実家の父が母、弟と日本に帰国した。

言葉も分からず、どうやって暮らしているか心配でたまらず、

日本から呼び寄せられた時、自分と夫、長女(当時4歳)の3人で日本に渡った。

日本に来たくて来たのではない。

両親が心配で、子どもは親についていてあげなければ…という思いでやってきたのだった。

それは、中国で生まれ育ち、中国が全てだった2世の共通の想いだ。

それでも青木さんは、日本語の習得、就職、ホームヘルパー試験1級、

日本語能力試験N1など、一つひとつクリアしていった。

次女が生まれると、あれほど結婚に反対していた義母が日本に来て、

6か月間も一生懸命孫の世話をしてくれ、お蔭で自分は順調に仕事に復帰できた。

 

そんなとき、中国の義父が倒れた。

夫と相談して、ずっと中国で暮らそうと決意し、

海を渡って家族みんなで長春に戻った。

しかし、当時4年生の長女は中国の生活に馴染めなかった。

年を経るごとにストレスが溜まり、

ついには一人でも日本に戻ると主張し始め、行動も病的になった。

 

長女を病気にしないために、

中学1年の秋(中国では新学期)、

青木さん、長女、次女の3人で再び大阪に戻ってきた。

一度明け渡した市営住宅には、いくら帰国者でも優先権はなく、

安く、劣悪な環境のワンルームマンションを借りて暮らした。

長女は、日本の中学校の授業の日本語がさっぱり分からなかった。

生活言語とアカデミック言語は違う。

子どもはほんの少しで生活言語をマスターするが、学術用語などが頻出する授業は、

まるで別の言語のようなものだ。

長女はやみくもにがんばったが、目に見える効果は出なかった。

その頃の長女の言葉、

「私、IQのテスト受けたい。もし、私の頭が普通だったら、私は一生懸命頑張る。

でも、頭が悪かったら、どんなに頑張っても無理なんだから、もう頑張るのを

諦めるわ。」

を思い出すたびに、青木さんの目に涙が浮かぶ。

その後、次第に長女は荒れ、

「親の都合で中国だ、日本だ、と子どもを挽きずり廻して、

おかげで私の人生台無しだ!」

と何回も泣きながら怒鳴ったという。

 

この頃、青木さんの神経が摩り減ってしまった。

死ぬことも頭を過ぎった。

夫がまた日本に来てくれたら、どんなに心強いかと思ったが、

中国の両親は歳も歳だし、決して元気になることはない。

つまり、夫は日本には来れないんだと悟ったとき、

青木さんは、(自分で頑張るしかない。自分の可愛い子どもじゃないか)と、

覚悟を決めた。

 

今、長女は大学3年生、次女は5年生になった。

家ではほとんど中国語で話をする。次女は学校で、意味が分からないことで

先生に叱られたり、子ども同士の中に入っていけないことがあるという。

3世になっても、日本語の細かいニュアンスが分からないことは往々にしてある。

次女は、このまま地元の中学に進学して、同じ顔ぶれでやっていく自信がないと

青木さんに訴えている。

「次女が大学を出たら、私は長春に戻り、夫と一緒にずっと一緒に暮らします」

という青木さんの夢は、少なくともあと十数年叶うことはない。

・・・・・・・・・・・・

青木さんの話を聞いて、たとえ戦争は何年間かで終わっても、

その後遺症には終わりがないことを痛感した。

戦時中の中国侵略のお先棒担ぎに駆り出された日本の民衆は、

戦争が終わって後、中国残留孤児や残留婦人になり、

文化大革命では日本人であることで攻撃を受け、

帰国が実現しても、2世、3世まで、その禍根を残している。

 

青木さんの話を脇でずっと聞いていた帰国者1世の西井澄さんが、最後に、

「私らは、中途半端や。日本に来ても中国に行っても。」

と言った。その切なさ、悲しさが心に深く沁み込んでいく。

 

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2 コメント

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『大地の子』に… ()
2015-05-21 01:59:21
代表されるような辛い物語がどれだけあるのだろう?と思います。
戦争はどれだけの悲劇を生むのか!
憲法9条を守りたい!戦争につながるものを全て阻止したいです!
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勉強不足と戦争オタク (ブルーはーと)
2015-05-22 23:49:19
空さん、
今日フェイスブックを見ていたら、
「私はポツダム宣言を詳らかに読んでいません」と安倍が恥ずかしげもなく言い、石破は石破で、
「アメリカの若者が血を流しているとき、日本の若者は血を流さなくてもいいのか」と発言したと書いてありました。
安倍さんは、ポツダム宣言を認めたくないのでしょうが、認めたから戦後がスタートしたのにね。
今更、日本がやった戦争を美化する首相が登場して歴史を逆行させられたら、たまったもんじゃありません。
石破が戦争オタクだと言って笑っていられる場合でもなくなってきた今日この頃ですね。
日本の若者もアメリカの若者も血を流してはならず。「戦争をしない国づくり」のために、頑張れる者たちは頑張り、声を出せる者は声を出し、行動できる者は行動する。生きて、呼吸して、つぶやける者は呟く。平和を愛する者たちの総力で戦争を阻止しましょう。
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