昨夜、大阪淡路のアジア図書館で中国帰国者1世の西井澄さん(79歳)が
中国残留の体験話をされた。
大阪自由大学主催(アジア図書館共催)の連続講座「東アジアを考える」
でのことである。
(左が西井澄さん:会場のアジア図書館で)
―――西井澄さんの話〈要旨〉
1942年、満州高知県開拓団に父、母、6歳の自分、妹の家族4人で入植しました。
1945年7月、父が日本軍に現地召集され、母が産後7日目だったので、
長女の自分だけが駅まで見送りに行きました。
泣いて別れましたが、その後、父に二度と会うことはありませんでした。
敗戦後、母子3人は他の人たちと共に、何とか日本に帰るために逃げました。
半年に及ぶ逃亡生活で毎日、目の前で人が死んでいくのを見、
1歳にもならない下の妹も母の腕の中で死んでいきました。
なぜ、自分たちはこんな目に遭わなければならないか考えました。
(戦争のせいだ。戦争が平和な家族の生活を滅茶苦茶にしてしまった)
と小さいながらも思いました。
その後、病気になった母とともに中国人養父に引き取られ、畑仕事に従事する傍ら、
雨の日と雪の日だけ学校に行かせてもらえました。
とぎれとぎれに3年半小学校に通ったのち、成績がよかったため、
師範学校に推薦されて4年間寮に入り、国費で勉強しました。
小学校の教師の職を得て2年後、
電話局に努める中国人男性と結婚し、家庭を持ちました。
子どもも4人生まれ、
与えられた教師の仕事と家事、政治活動を一生懸命こなしていました。
そんな平和な生活でしたが、
文化大革命の時、日本人であることで攻撃を受けました。
自分がやられるのはなんとか歯を食いしばって辛抱できましたが、
子どもが毎日泣いて帰ってくる姿に耐えきれず、帰国を決意しました。
帰国が実現したのは1981年8月のことです。
(日本に帰ったら、きっと何もかも良くなる)と信じて帰ってきましたが、
待ち受けていたのは、それまで以上に苦しい生活でした。
私は私費帰国だったため、国からの保証は一切受けず、
帰国後1週間で病院の付添として働き始めました。
言葉が分からないためにたいへんな辛酸を舐め、
(日本に帰ってきたのは間違いだったか)と思うときもあったのです。
「お母さん、中国に帰ろう」と子どもが訴えたこともありました。
それでも、子どもたちは何とか成長し、私も68歳までつきそいの仕事を続けました。
病魔に襲われたこともありましたが、今は毎日1時間半から2時間歩き、
ほとんど病院にかかることはありません。
この3月に、夜間高校を卒業し、
生まれて初めて校長先生から直に卒業証書をいただきました。
私は中国も日本も二つとも、自分の祖国だと思っています。
平和のために何かしたいのですが、
自分にできることは、これからも健康に気をつけて、
精一杯、生きている限り、勉強を続けることだと思います。
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