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日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「西井澄さん、中国残留の体験を語る」2015年4月23日(木)No.1342

2015-04-23 22:49:32 | 中国帰国者

昨夜、大阪淡路のアジア図書館で中国帰国者1世の西井澄さん(79歳)が

中国残留の体験話をされた。

大阪自由大学主催(アジア図書館共催)の連続講座「東アジアを考える」

でのことである。

 

(左が西井澄さん:会場のアジア図書館で)

―――西井澄さんの話〈要旨〉

1942年、満州高知県開拓団に父、母、6歳の自分、妹の家族4人で入植しました。

1945年7月、父が日本軍に現地召集され、母が産後7日目だったので、

長女の自分だけが駅まで見送りに行きました。

泣いて別れましたが、その後、父に二度と会うことはありませんでした。

敗戦後、母子3人は他の人たちと共に、何とか日本に帰るために逃げました。

半年に及ぶ逃亡生活で毎日、目の前で人が死んでいくのを見、

1歳にもならない下の妹も母の腕の中で死んでいきました。

なぜ、自分たちはこんな目に遭わなければならないか考えました。

(戦争のせいだ。戦争が平和な家族の生活を滅茶苦茶にしてしまった)

と小さいながらも思いました。

 

その後、病気になった母とともに中国人養父に引き取られ、畑仕事に従事する傍ら、

雨の日と雪の日だけ学校に行かせてもらえました。

とぎれとぎれに3年半小学校に通ったのち、成績がよかったため、

師範学校に推薦されて4年間寮に入り、国費で勉強しました。

 

小学校の教師の職を得て2年後、

電話局に努める中国人男性と結婚し、家庭を持ちました。

子どもも4人生まれ、

与えられた教師の仕事と家事、政治活動を一生懸命こなしていました。

そんな平和な生活でしたが、

文化大革命の時、日本人であることで攻撃を受けました。

自分がやられるのはなんとか歯を食いしばって辛抱できましたが、

子どもが毎日泣いて帰ってくる姿に耐えきれず、帰国を決意しました。

帰国が実現したのは1981年8月のことです。

(日本に帰ったら、きっと何もかも良くなる)と信じて帰ってきましたが、

待ち受けていたのは、それまで以上に苦しい生活でした。

 

私は私費帰国だったため、国からの保証は一切受けず、

帰国後1週間で病院の付添として働き始めました。

言葉が分からないためにたいへんな辛酸を舐め、

(日本に帰ってきたのは間違いだったか)と思うときもあったのです。

「お母さん、中国に帰ろう」と子どもが訴えたこともありました。

 

それでも、子どもたちは何とか成長し、私も68歳までつきそいの仕事を続けました。

病魔に襲われたこともありましたが、今は毎日1時間半から2時間歩き、

ほとんど病院にかかることはありません。

この3月に、夜間高校を卒業し、

生まれて初めて校長先生から直に卒業証書をいただきました。

私は中国も日本も二つとも、自分の祖国だと思っています。

平和のために何かしたいのですが、

自分にできることは、これからも健康に気をつけて、

精一杯、生きている限り、勉強を続けることだと思います。

――――――

 

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