毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「山本太郎・北海道キャラバン日程変更のお知らせ」No.2420

2019-09-14 03:00:40 | 民主主義について

先日、れいわ新選組代表、山本太郎さんが

北海道各地に行って地元の方々とおしゃべり会をしたり、

ポスター貼りをしたりするとお知らせしましたが、

ラグビーW杯関係の行事のため、

日程が大幅変更せざるを得なくなったそうです。

もう、既に予定してくださっていた方は本当に申し訳ありませんが

何とか下の変更に合わせていただけませんか。

すみませんがよろしくお願いいたします。


《スケジュール変更は次の通り》

9月18日(水) 利尻島

9月19日(木) 礼文島→稚内

9月20日(金) 網走

9月21日(土) 釧路

9月22日(日) 釧路 

9月23日(月) 根室 

9月24日(火) 札幌 

9月25日(水) 旭川

9月26日(木) 旭川

9月27日(金) 帯広

9月28日(土) 帯広

★★詳しくは下の説明をご覧ください★★

 

 

★★ポスター貼りのボランティアをしてくださる方は

時間通りにご集合ください、とのことです★★

 

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「中秋節:山東省はすっかり秋」No.2149

2019-09-13 23:36:30 | 中国事情

↑路面のモクゲンジの落花が日に日に増えてきました。

山東省菏澤市は「突然ですが秋です」状態です。

先週までほぼ毎日30℃を越えていたのに、

今日は長袖でちょうどいいくらいです。

天気予報を見たら、もう今年30℃を越える日はないとのこと。

2日前にバナナアイスを大量に作ったのに、

寒い晩に食べろというのか……。

 

今日は中秋節休みで授業はありません。明日、明後日は土日で休みです。

昨日の夕方は、家に帰るか、旅行に行くかのために

脱兎の如くキャンパスを去る学生が目立ちました。

下の写真の左側グループです。

右側グループは食べ物を買い込んで、寮でゲームでもするのでしょう。

今日の私は、午後の数時間、

今年3年目を迎える山東省日本語スピーチコンテストに出場する

3年生の殷雪珂さんのプライベートレッスンをして、

その後、キャンパス外の三信スーパーで

落花生&胡麻の混合ペーストやら買い、

ブラブラ歩いて帰りました。


 ↓「手工(手作り)月餅」屋さんに学生たちが群がっています。

中秋節には月餅を食べなければならないと決め込んでいるのです。

しかし、山東省の月餅は小豆餡の甘いものばかりで、

私の好きな卵入りのは売っていません。

ああ、江西省の月餅が食べたいなあ。

↓キャンパス前の道路は、

大学に留まっている学生たちがゾロゾロ歩いています。

授業がないというだけで超のんびりムードの学生たち。

これが菏澤学院の学生たちです。

 ↓キャンパス内の休憩所(東屋)は冬以外、背の高い枝垂れ楊に守られています。

風でサラサラと揺れる枝垂れ柳の葉の音が、

疲れた心に(大丈夫、だいじょうぶ)と聞こえてきます。

 

 ↓さて、今晩のディナー(笑)は、

チキンチャウダーヌードル入り、オクラの油炒め、葡萄です。

チャウダーには、パセリがないので

香菜(シャンツアイ;タイ語でパクチー)を散らしました。

 

オクラは、巨大化してトウのたったものしか売っていなかったので

たぶん中国ではみんな炒めて食べるのだろうと思い、

やってみると、イヤイヤイヤ、これは美味い!

ごま油でしんなりするまで炒め、火を止めてから醤油、粉唐辛子で味をつけ、

削り節(日本から持ってきた)をふり掛けただけです。

オクラの種まで味がついて美味しかったですよ。

 

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「れいわと共産党、野党連立政権実現に協力。立憲民主党は何してる?!」No.2418

2019-09-13 01:01:54 | むかむか

れいわ新選組と共産党が野党共闘を推し進め

「野党連合政権」を実現するために協力することで一致したとのこと。

私はムカムカしましたよ。

何がって、たった2政党だけかい!

立憲民主、なにぐずぐずして腐っとんねん!!

支持団体の連合に反対されて身動き取れないだと。

それ、民主党のときからの悪癖でしょ。

何のために立憲民主党を作ったんですかっての。

〈連合の神津里季生会長は12日の会見で「目指す国家像が違う共産党と一つの政権を担うのはあり得ない」と強調した。〉時事通信9/12 20:13

「連合」って「日本労働組合総連合会」というのが正式名称で

てことは、れっきとした労働組合なんですよ、これでね~

新潟知事選挙で連合新潟原発賛成の自民党候補を支援して、

野党共闘系候補を潰そうとしたこと、

みなさん、まだ、覚えていらっしゃいますよね。

さらに今年になって連合は、

「消費税10%増税は着実に実施してください」

と政府に要請までしています。

あたまオカシイんじゃないですか。

働く者の苦しさや庶民の生活を抜本的によくしようという態度まるでなし。

連合会長の神津里季生(こうづ・りきお)は、

どんな人かと言うと、

東京学芸大付属高校→東京大学→新日鉄(株)に就職して高給取りですよ。

新日鉄でずっと組合書記とかやっていて、連合の口利きで

1990年から3年間は外務省在タイ日本大使館職員をした人です。

こういう人を典型的な「労働貴族」と言うんですよね。

立憲民主党は、この労働貴族=大企業の友だち=連合との

腐れ縁を断ち切らなければ、

庶民の支持は得られないと思ったほうがいいです。

最近、立憲民主党と聞いてもワクワク感がないどころか、

(ホントに頼むからしっかりしてくれよな)とウンザリ感満載です。

枝野さん、やるときゃスパッとやらんと、

古巣の民主党の二の舞ですよ。

最後に山本太郎の一言を引用。

「右派も左派も興味なく、僕はフリースタイルだと思っているんで。

右も左も良いところを融合させる方がよっぽどいい。」


ーー資料:共産党・「れいわ」党首会談YouTube動画

https://www.youtube.com/watch?v=KUraEcb_EHc&feature=share&fbclid=IwAR3ZPu1nLKngIw9JIiGR-pB48UYToky2QzpxwJrfW4_njvP8N8QrCWmty3A

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「中国の終末医療:学生たちに看取り体験を語ってもらった」No.2417

2019-09-11 23:36:59 | 日本中国比較

↑新一年生は軍事訓練用のユニフォームを着ているので

すぐに見分けがつきます。

この訓練後、この服を(もったいないからしばらく着よう)

と思う学生は誰一人いません。

「パジャマにしたらいいんじゃないの?」と聞くと、

「化繊だから汗を吸い取らなくて蒸れるし、絶対に着たくないです」

と言います。

しかし、ときどき現場作業員のおじさんや年配の人が、

古着で二束三文で売られているこの服を買って着用しているのですが、

学生たちはそれを全く意に介さない様子で通るのが

内心チクッと感じます。

基本、ここの大学生の半数はお坊ちゃま君、お嬢ちゃまたちです。

ーーー

3年生の授業で、北海道のSTVテレビ(HTVだったかも)の

シリーズ番組「老いるショック」のうち、

家で死を迎えるための在宅医療を推進している動画を見ました。

日本の病院医師のように患者の家まで訪問診察に出向くことは

今も中国では(少なくとも学生たちの故郷では)全くなく、

昔ながらの医師資格を持たない「村のお医者さん」が緊急の場合、

診察に来てくれているそうです。

では中国ではどのように人々は死を迎えるのか、

具体的に自分の家族や身近な人が

病院で亡くなったか、家で亡くなったか、

見たこと・体験したことを発表をしてもらいました。

実は、中国では「死」に関する話題を日本以上に避けます。

「終活」などを冷静に語る日本人に驚きの気持ちを抱くと

ある学生が言っていたことがあります。

私は高齢化社会ー終末医療の問題は避けて通れないという理由で、

皆にさらっと語ってもらおうと思ったのですが、

なかなかそうはいきませんでした。


「4年前、祖母は家で胃がんで……(しばらく絶句し、泣く)

皆で、祖母の周りを囲んで、祖母は幸せだったと思います」(女子学生)

「一昨日、隣の家のおばあさんが亡くなったことを

親から電話で聞きました。」(ここまで話した時点で涙ぐむ女子学生)、

泣きこそしなかったものの、

「祖父を病院に見舞って一週間後、父に『お祖父さんが亡くなった』と

知らされ、とても……(絶句)。祖父は、病院が嫌でした。

早く家に帰りたいと言っていました。」(本当に悲しそうに話す男子学生)、

 

このように、学生たちにとって親しい人の死は、

何年経っても口に出すと冷静ではいられないほど悲しいということが

よく分かりました。

特に中国の多くの学生たちは祖父母を非常に、非常に、慕っています。

幼少の頃、親が忙しく働いている間、

祖父母に育てられた子も多いのです。

 

身内が家と病院と、どちらで亡くなったかを聞いたところ、

病院で亡くなった人と家で亡くなった人はほぼ同じ人数でした。

しかし、家で亡くなった人の場合、病院の医師に

「もうすぐ亡くなるでしょう。病院でできることは何もありません。

家で最期を迎えますか。入院していたらお金もかかるし。」

と言われて家に連れて帰り、

その日の晩とか、数日以内とかに亡くなったケースが複数ありました。

それは日本の医療関係者が目指す「在宅終末医療」とは程遠いものです。

家に連れて帰ったものの、

本人は食べることもできなくて骨と皮にやせ衰え、

苦しみぬいて死に逝く祖父は見るに耐えず、

家族は会話もなく、暗く苦しい看取りだったという体験もありました。

家で死ぬと言っても痛みを伴う病気の場合、

医療ケアがなければ本人も家族にとっても地獄です。

 

お金によって病院の治療内容や待遇が全く違うこの国で、

(日本はどうでしょう?)

庶民が在宅で終末を迎えるという意味は、

医療抜きで家で亡くなるということのようです。

(村のお医者さんは別として)

それでも、ある女子学生はこう言いました。

「祖母はまだ健在です。ある時、ふと祖母がこう言いました。

『病院は嫌いだ。慣れた自分の場所で死にたい』と。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「「1945←2015 若者から若者への手紙」」No.2416

2019-09-10 23:41:03 | 

『若者から若者への手紙 1945←2015』

落合由利子、北川直実、室田元美〈著〉

1945←2015 若者から若者への手紙出版社:ころから

時を超え、2015年の若者が70年前の若者に宛てた手紙。

敗戦の1945年に10~20代の若者だった15人の戦時体験談と、

それに対して書かれた15通の手紙をまとめた本です。

フェイスブック友だちみくにさんの投稿記事で知りました。

その記事に紹介されていた

1945年当時若い女性教員だった岩瀬房子さんの手紙と写真、

2015年に現役の20代教師である武井佑紀乃さんから岩瀬さんに宛てた

手紙と写真を孫引きさせていただきます。

私も教員の端くれですので、もし、その時代に自分が現場に教師としていたら……と

疎開の場面は胸苦しい思いで読みました。

敗戦で、それまで自分が信じていたことを黒塗りしなければならなかったのは

精神的にたいへんな苦痛だったことでしょう。

しかし、もう一度生き直す活路を日本国憲法に見つけられたのは

納得です。

「すべて人間は生まれながらにして、幸せに生きる権利がある」

と、高らかに宣言した日本国憲法は、

庶民が人間らしく生きるための最強の武器です。

岩瀬房子さん

『私が念願の教師になったのは1942年。十八才の春でした。
 前年の十二月八日、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃しました。今でもはっきり覚えています。朝、新聞を読んでいた父が、ふだんは穏和な人だったのですが厳しい顔をして「アメリカと戦争して、勝てるわけないじゃないか。バカなっ」と吐いて捨てるように言ったのです。

その朝、「行ってまいりまあす」と家を出て振り返ると、家の物干しでは洗濯物がひらひらと風に揺れ、空は青々としているのよ。「こんなに静かで平和なのに、戦争が起こるんだろうか……」なんだか不思議な気持ちだった。

それから世の中全体がだんだん、戦争に協力しなくちゃいけないムードになっていきました。「贅沢は敵だ」と言われ、女の人は「パーマネントはやめましょう」ってお互い注意し合うようになったりね。私が勤め始めた国民学校でも、男の先生は出征して次々いなくなった。朝礼の音楽も、最初はタンタカタッタって、軽快な「トルコ行進曲」だったのに、いつのまにか「海ゆかば」になりました。この曲を聞くと、海に浸かっている血まみれの兵隊さん、雨にしたたか濡れて横たわる兵隊さんたちの姿が浮かんで、何とも言えない気持ちでした。ですから私は今でも、「海ゆかば」が嫌いです。

 いよいよ戦争が激しくなってきた1944年八月。三年生の女生徒たちを引率して、長野の、戸倉温泉(現・千曲市)に学童疎開することになりました。私が受け持ったのは二十人ぐらいでした。子どもたちは遠足気分でリュックを背負い、いっぽう、駅に見送りに来たご両親は気が気ではないようでした。私の胸にぶら下がるようにして、「この子はすぐ風邪を引くんです。先生、よろしくおねがいします」「おねしょしないように、おしっこに起こしてやってくださいね」とおっしゃってね。一人ひとりの母親代わりになるんだと思うと、不安でいっぱいでした。

 遠足気分の子ども達が喜んだのもつかの間で、三、四日経つと家が恋しい、帰りたいと言う。疎開先でもだんだん食べ物が粗末になって、子どもたちはお腹を空かせて、枕の中の小豆まで口にしていました。お夕飯はみんなで輪になって食べましたが、すいとんが出ると、私は大人だから一つぐらい多く入っているの。子どもたちの目が、じーっとそこに注がれて、でも、一人にあげるわけにはいかないし。もう、味なんてない。飲み込むようにして食べましたね。……

 忘れもしない、45年の夏のことです。ある夜中に「グオオ~」っとものすごい地響きがして、続けて空襲警報がなったのです。信州の山の中まで米軍のB29が飛んできたんですね。慌てて、旅館の二階に寝ていた子どもたちを起こしたものの、どうしていいか分からない。一階に降ろして場名前を呼んで、全員いることを確認して、玄関の側の広間に頭を真ん中にして放射状に寝かせました。そして、布団を何枚もかぶせて、その上に私がうつぶせに乗って「起きちゃだめだよっ!頭を上げるんじゃないよっ!」後にも先にも、あんな乱暴な言葉で怒鳴ったことはありません。とにかく子どもたちに飛び上がられちゃたまらないと思って、幸い爆撃はされませんでしたが、心臓も凍る思いでした。よそさまの子どもに何かあったら……。自分のことなんかこれっぽっちも考えられなかったわね。彼女たちとは、今でも時々会いますが、「布団の重み、肩が覚えていますよ」「あのときの先生、怖かった」などと言いますよ。「先生は重かった」(笑)って。だって、命だもの。

 日本は勝っている、と聞かされてきましたが「B29が信州にまで飛んできたのだから、もう負けだな」と思いましたね。玉音放送は泊まっていた旅館の前に整列して聞きました。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という、あの放送です。ああ、日本は負けたのだと、ずしーんと鉛でも呑まされたみたいになりました。子ども達を部屋に集めて、戦争に負けたことをどう伝えたものか、子どもたち、泣くんじゃないだろうか。

ところが、一瞬、しーんとした後で、スギちゃんという小柄なお転婆さんが、素っ頓狂な声を出して、「おうちへ帰れますね!お父さん、お母さんに会える!」他の子どもたちも喜んでチョウチョのように部屋の中を飛び回って、私も「ああ、そうだ。戦争で殺されることはもうない。私も子どもたちも助かったんだ」。へたへたとその場に座り込んでしまってね。

生きていることが一番大切なんだと、子どもたちに教えられました。だから、私の原点は、敗戦なんです。
 けれども気持ちは晴れない。私も学校では「日本でいちばん尊いのは天皇陛下です」と教えた。二重橋を知らないという子供たちを連れて、無邪気に皇居へ参拝に行ったこともあったのよ。なんにも知らなかったと言えばそれまで。だけど、戦争に加担したことになるんじゃないか。教師として辛い時期でした。「これから日本はどうなるんだろう」。子供たちの教科書を回収して、戦争を賛美する言葉を塗りつぶしながら、それが何を意味するのかさえ分からない。もしかすると、こうしてこれから全て、アメリカの言いなりになるんだろうか、と思いました。一年ほどして結婚し、子どもができたのを機に、教壇を去りました。

 自信を失っていた時、希望を与えてくれたのが「教育基本法」と「日本国憲法」でした。目を皿のようにして新聞を読んで「すごい、すごい」。あの時はうれしかったですねぇ。とくに戦争放棄をうたった憲法九条は、こんなことができるんだ、と。私はようやく立ち直ることができた。「これで生き直せる」と思ったの。
 三人の子育てを終えてからは、もう一度、戦後の新しい民主主義を学び直したいと思った。理由はいろいろあったんですけど、一つには、知らないことは罪になる、と戦争でしみじみわかったから。市川房江さんの下で学んで、もともと、亥年で猪突猛進なものだから、おかしいと思ったら自分から走り出して、そうやって平和のことや、地域を暮らし易くする活動にずっとかかわってきました。近所の子どもたちに戦争のことを伝えたいと思って、親子で「裸足のゲン」や「ガラスのうさぎ」を鑑賞する「いずみの会」を立ち上げました。

 それなのに、二度と戦争をしてはいけないという当たり前のことも、命の大切さも、今の時代、わからなくなってきているようです。
 命がいちばん大事。私は疎開先で子どもたちから教わった。生きている限り、それを伝えたいのです。』

武井佑紀乃さん

『拝啓

あの日のあなたへ

 私は今、二十代も半ばを過ぎ、教壇に立つのも四年目になります。自分が学生だった頃は「先生」というと、本当に大人で、住む世界も違って、だからこそあまり好きではなくて……思春期ならではの「心のモヤモヤ」ぶつける相手でした。そんな子どもだった私がまさか教師になるなんて、当時は考えも及びませんでした。今でも当時の先生方とお会いすると、頭が上がりません。

 社会人になり、周囲からもやっと「大人」の扱いを受けるようになった頃、祖母から色々な昔話を聞かせてもらうようになりました。祖母は長崎出身で被爆者でした。私は実体験に基づく凄惨な話を身近な人から聞くことで、ぐっと「戦争」というものが身近に迫った心持がしました。「食べ物を思い切り食べられることが幸せ」「家族で一緒に旅行に行けるなんてすごい」……祖母がそれまで言っていた言葉の、本当の意味がわかった気がしました。当たり前が当たり前ではなかった時代がある。今を生きる私たちは、当時の経験がないからこそ、事実を知らなければならないのだと痛感するようになりました。

 そんなときに岩瀬さんのお話をうかがって、同じ年頃で、また、同じ教師として、本当に胸が張り裂けそうでした。自分が岩瀬さんのような経験をすることになったら……。考えても、考えても、私には平和でない日本が想像できませんし、答えがみつかりません。岩瀬さんが感じられた寂しさや、つらさ、悩み、憤り……想像を絶することでしょう。共感だなんておこがましいとさえ、感じました。情けないです。しかし、今も昔も変わらないのだと、変に嬉しく感じられたのは「大人が子どもに教えられることがある」ということでした。終戦の瞬間、「助かった!」「家族に会える!」と声に出して叫べた大人どれだけいたことでしょう。軍国主義に染まっていた日本で、純粋に家族を恋しく思い、自分の心のうちを正直に表現できたのは、子供だけだったのかもしれませんね。

 私は今、中学生や高校生と一日の半分以上をともに過ごしています。教師という立場ですから、褒めたり、叱ったり、時に一緒になって何かに夢中になったりもします。いつか立派に成長した教え子を見るのが私の夢です。ですが、子どもであるはずの彼ら彼女らに、はっと気付かされるときも多くあります。授業中、思いもよらぬ質問が飛んできたり、まっすぐな感情で喧嘩をしていたり、私たちが成長してしまって「できなくなったこと」を、子どもたちはまっすぐに行います。岩瀬さんもあの終戦の時、そんなことを感じられたのではないでしょうか。

 わたしは「せんせい」としてはまだまだ未熟です。ですが私なりに、先に生きてきたものらしく、誇りを持って次世代の子どもたちに多くのことを教え、伝えていきたいと思います。そして、岩瀬さんのような素敵な「せんせい」がいらっしゃったことも。』

 

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「宮古島市が市民相手にスラップ訴訟?こんなんありか!」No.2415

2019-09-09 22:26:46 | 地方自治

 沖縄県宮古島市で、住民監査請求を経て提訴した

ゴミの不法投棄訴訟で住民側が敗訴したとたん、

なんと訴えられていた市が、今度は住民を提訴し返すというのです。

理由は「名誉毀損」なんですと。

今まで地方自治体で住民が訴えを起こし、敗訴した例は数々あれど、

訴えられて名誉を毀損されたからと逆提訴するなんて

聞いたことがありません。

市は市民の公僕じゃないんかい??

ああ、ここの市長は、あの沖縄県民投票をさせないために

「うちの市はやりませんよ」と駄々をこねた

あの下地敏彦市長だったわ……。

現在、宮古島市議会では提訴案の内容に問題があるとして

紛糾しているそうです。

ーーー資料 

民主主義の劣化だ

横田達弁護士の話 

 ごみ撤去事業を巡る住民訴訟は、地方自治法で権利として認められている住民監査請求を経て提訴されたものだ。住民が敗訴したという理由で名誉毀損(きそん)訴訟が提起されれば今後、市に意見を言えなくなってしまう。市のやり方は住民自治に反し、民主主義の劣化だ。

 そもそも何を根拠に名誉毀損と言うのか。住民への報復や、政治的意図があるのではと勘繰らざるを得ない。東村高江のヘリパッド建設を巡り国が住民を訴えた訴訟と同じ構図で、市政に反する市民を弾圧したい意図が見え隠れする。

 特に島社会の宮古島で、市という公の機関が市民を訴えたとなれば、萎縮効果は大きい。税金を使って提訴する以上、市長は提訴に至った経緯を明確に説明する責任がある


宮古島市、名誉毀損で市民を提訴へ 不法投棄ゴミ訴訟  

8/30(金) 10:20配信 

  

副市長「虚偽の主張繰り返した」

 最高裁で市民有志の訴えが棄却された不法投棄ごみ訴訟について29日、宮古島市は原告の市民6人を名誉毀損(きそん)で訴える方針を市議に説明した。訴訟は宮古島市議会の議決が必要で、同議会9月定例会に議案として提案する。

 長濱政治副市長は、マスコミの質問に名誉毀損の理由として「(裁判は)1、2、3審とも原告側は全面敗訴した。それを真摯(しんし)に受け止めて言動は慎むべきだった」と述べ、最高裁が上告を棄却した後も報告会を開いたり、マスコミに「虚偽の主張」を繰り返したことを挙げた。一方、原告代理人を務めた弁護士は「市の政策に対して異議を述べる市民に対する報復措置であると考えざるを得ない」と批判した。

 長濱副市長は「全面的に負けたにも関わらず、原告市民は『裁判が悪かった』『自分たちの意見が通らなかった』などと報告会を開いて主張した」と指摘。「棄却されたにも関わらずそれを主張している。負けたことを認めてもらわないと困る」と述べた。
 識者からの「行政が市民を訴えるのは報復ではないか」「市民活動の抑圧につながるのではないか」という声には「市も法人だから市の名誉を守りたい。何でもかんでも言って良いというわけにはならない」と述べた。

 損害賠償額の1100万円の根拠については、1~3審までの市の裁判費用540万円、今後の訴訟費用100万円、残りの460万円分が損害賠償金だとした。
 提訴を決めたのは、原告市民らが7月26日に開いた「不法投棄ごみ残存問題裁判」の最終報告の後で、最終的には市の幹部らで構成する庁議で決定したという。

 一方、不法投棄ごみ裁判で原告市民の代理人を務めた喜多自然弁護士は、市が市民を提訴することは想定していなかったとし「通常あり得ない訴訟。聞いたこともない。全国的にもまれな訴訟だと思う」と話した。

 その上で「市民が住民訴訟を起こすと、今度は市から訴訟を起こされるとなると、政策に対する議論や検証も難しい雰囲気になる」と話した。同訴訟で原告市民の一人は「市に盾突くものに対しての見せしめのようなものだ」と憤りを見せた。

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沖縄タイムス 2019年9月4日

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「中国の新四字熟語〈打虎拍蠅:虎も蠅も同時に叩け〉」No.2414

2019-09-08 23:23:09 | 中国事情

打虎拍蠅:大物も下っ端も同時に叩け」

保護傘:悪者の支援者」

の新熟語を覚えました。

私の携帯に頻繁に

下の写真のような菏澤市当局からのメッセージが届くからです。

「悪者がいたら通報しなさいね」ということです。

しかし、どんな人を「悪者」と判断するかは

全て国家に委ねられていることが問題ですね。

日本の「特定秘密保護法」も

国家が秘密だと決めたことを漏洩したら逮捕されますが、

何が秘密かは秘密だというとんでもない法律です。

中国も日本も為政者がやりたい放題の感があります。


元々、これは習近平さんが主席になって作った熟語で、

「黒悪=腐敗分子(汚職とかする人)」を指すそうです。

もう何十万人もが処分されたらしいですが、

今もそんな人は中国のいたるところにいると私は感じます。

誰とは分かりませんけどね(笑)。


だいたいの意味は次のようなことでしょうか。

↓「邪悪を一掃する〈打虎拍蠅〉と結合して奮い立ち、

邪悪な勢力の背後にいる〈保護傘〉を深く暴こう」

「邪悪関連犯罪を摘発し検挙することは

一公民のつくさなければならない義務です。

もしあなたが黒悪関連の手がかりを発見したら

ただちに全国の通報窓口に登録してください。」

 

↑この曹県とは『三国志』の曹操の息子が城を建て、

支配したところだそうです。

今、その城は破壊しつくされて何もないとのこと。

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「山本太郎、北海道を皮切りに全国キャラバンへ」No.2413

2019-09-07 23:54:24 | 民主主義について

 

北は北海道から南は沖縄まで、

今まで山本太郎は何年も一人で駆け回ってきました。

でも、もう一人じゃない。政党になり、党員仲間もいます。

「6年間、国会でやってきた中で思ったのは、

野党も含め、議員の皆さんは

この国をよくしたいって思ってるんでしょうけど、

まるでみんな『貴族』みたいで、

本当に変えるんだっていう気でやってんのかなって。」

・・・もちろん、山本太郎は一人でこの国を変えると

言っているんじゃなく、

「もう、この国にDVされてきた当事者のみんなで変えるしかない。

だから一緒にやりましょう。力貸してください。」

ということなんですね。

山本太郎を左派ポピュリスト、橋下徹を右派ポピュリストと

中島岳志東工大教授は呼びますが、

ポピュリズムは「一部の人間から政治を取り戻す」だけでなく、

そのための手段として「嘘も方便」として使っているのですから、

橋下徹はその通りですが、

山本太郎はポピュリストではありません。

ひたすら、一生懸命勉強してこの閉塞状況の突破口を

真っ向から開こうとしているのです。

北海道の皆さん、9月18日利尻島を皮切りに、27日の網走まで、

山本太郎(れいわ新選組代表)が近くに行きます。

どうか、万障繰り合わせて話を聞きに行ってくださいませ。

ーーー下は山本太郎サポーターズクラブ☆MQからの情報です。

 れいわが始まる 山本太郎 全国ツアー 

 【第一弾・北海道】 
 9月18日(水)~9月27日(金)

 <スケジュール(予定)>
 9月18日(水)利尻島
 9月19日(木)稚内
 9月20日(金)札幌【街頭】
 9月21日(土)札幌
 9月22日(日)旭川【街頭】
 9月23日(月)旭川
 9月24日(火)根室
 9月25日(水)釧路【街頭】
 9月26日(木)釧路
 9月27日(金)網走

※街頭記者会見以外の場所はポスター貼りや、小会場での意見交換を行う予定です。
ツアー訪問先の地域の皆様、ぜひお力貸してください!
(特に、稚内・根室・網走の方、お願いいたします)

ご協力いただける方は、okada@taro-yamamoto.jp(担当:岡田)

までご連絡ください。

なお、9月17日(火)に、
党本部となる新たな場所で事務所開きを行う予定です。
場所は東京・赤坂見附になります。

ーーーーーーーーーーーーーーー

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「決死の毛布洗い」No.2412

2019-09-06 14:05:32 | 中国事情

4年前の夏、この大学に赴任した私が

宿舎に代々伝わる寝具(笑)に出迎えられた時の衝撃は

忘れようったって忘れられるものではありません。

江西省南昌市の前任校では、

毎年新しい超高級布団セットが支給されていたので

そのつもりで来た私は、着くなり外事処のMr.張に

「Why do I have to use these toooooo dirty things!!オエ~ッ!」

と、叫んだものでした。

(それからずっと文句の言いっぱなしでもう4年過ぎたわ)……。

その時、Mr.張は私の要求に部分的に応じて

掛け布団、掛け布団カバー1枚、枕カバー2枚、シーツ1枚を

新調してくれましたが、

裏側に虫が卵を産み、何人もの先任教師たちの体から出た水分による

染みがこびり付いた敷布団は、おそらく高いからでしょうが、

代わりにペラペラの小さい掛け布団ぽいものを

支給してくれただけでした。

節約家の私はお金をかけず、

あるものを清潔にする方法=洗濯することにしました。

敷布団も洗いました。


この毛布を初めてシャワーのお湯で洗った時、

もの凄い汚水が流れ出て

排水口近くには辺野古の赤土土砂みたいなのが堆積し、

(これを人間がかぶって寝てたのか)と呆然としたものです。

ラーゲリとか強制収容所に入れられた囚人みたいな気持ちでした。

私の前にこの部屋はKという日本人教師が使っていたので、

怒りは当然、Kにも向かいました。

その後、年に一度、毛布を使う季節が来る前に洗っています。

今年で5回目です。

実はこの毛布洗いは、かなりの重労働なんです。


①はじめは問題ありません。

乾いて軽いダブルサイズの毛布をシャワー室に軽々と運び、

適当に畳んでタイルに置きます。


②シャワーのお湯で十分ぬらして洗剤を塗布し、足で踏んで洗います。

滑らないようにすること、全ての面を踏むことに留意し、

20分ぐらいかけて洗います。

水を含んだ重い毛布を何度もひっくり返すので、

ここで腰が痛くなり、顔中汗が流れますが辛抱我慢。


③すすぎも丹念にして、また丁寧に足で踏んで脱水します。

排水口付近には1年分の汚れが溜まってきます。

まあ、初めて洗った時に比べれば、ないに等しい程度の土埃です。


④洗った後、洗濯物を干すところに移動させるのですが、

毛布は水の重みで乾いている時の10倍重いので、畳んで桶に入れ、

引き摺って移動させます。


⑤洗濯室に椅子をセットします。


⑥このように椅子にかけ、

水がボタボタ落ちるのを桶でとったり、モップで拭いたりしながら

そのうち水滴が出なくなり、乾くのを待つのです。

1時間弱の仕事でした。

ふう、やれやれ。明後日には乾くでしょう。

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「モクゲンジで彩られる山東省のキャンパス」No.2411

2019-09-05 23:37:22 | 中国事情

 今、大学は新学期です。

今年も、私には子どもにしか見えない一年生が入学し、

保護者も付き添って生活用品を買ったり、

食堂でご飯を食べたり、

何かしら浮き浮きと歩いたりする姿が

キャンパスの随所にみられます。

新入生たちからは大学生活への希望・期待オーラが発散されていて、

そう言えば6月に慌しく去って行った卒業生たちも、

4年前はこうだったなあ、と懐かしく思い出されます。

しかし、今年、我が日本語学部に入学してくる一年生はいません。

昨年の入学生が10人未満(たったの6人)だったので

自動的に今年は募集しないことになっているそうなんです。

それでなくても日本語専攻を選ぶ学生は少ないのに

去年は何を考えたのか、それまでと募集方法を変えて、

山東省からしか募集せず、また、第一希望の学生しか採用しませんでした。

そして、こういう事態になって初めて、

来年こそ元通り、

全国を対象に募集するだの、第6希望まで採るだの言っています。

意味が分からない大学なんです。


そんなこととは無関係に、キャンパスはモクゲンジで美しく彩られています

取りあえず、自然はいいなあ。

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「中国本土には伝わらない決死の覚悟」No.2410

2019-09-04 23:16:31 | 民主主義について

外国語学院ビルに入ると、電光掲示板に学院のスローガンが示されています。

   新学期新気象  新学期・新状況

『不忘初心 牢記使命 『初心を忘れず使命を心に刻み

 深入貫徹習近平新時代 習近平新時代の中国の特色ある社会主義思想

 中国特色社会主義思想』深く掘り下げ貫徹せよ』

「中国の特色ある社会主義思想」とはどんなものか、

私は中国で暮らせば暮らすほど、訳がわからなくなります。

スローガンを掲げているこの学院も

ただ建て前として書いているだけでしょう。

封建時代の発想がそこにもここにものさばっているこの大学が

「社会主義思想」と堂々と掲示するのがちゃんちゃらおかしく思えます。

 

ほんこんについて大学は中央政府と足並みを揃え、

「学生たちに対して一切述べてはならない」と緘口令を敷いています。

情報は百度(中国のインターネットポータルサイト)が

北京政府の通達を流すだけ。

微信などSNSでも中央政府の意見に同調するものしか見られないそうです。

ほんこんの人々が生きるか死ぬか、決死の覚悟でデモに臨んでいることは

ここ、山東省の地方都市では伝わり難い状態です。

日本でNHKや読売新聞だけを頼りにしていては

真実が見えてこないのと同じで……。


今日4日、香港政府の林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は、

「逃亡犯条例」改正案の正式撤回を表明しましたね。

もっと早く撤回していれば、

抗議を3ヶ月も長引かせることはなかったでしょう。

デモ隊の暴力には言及しても香港警察のすさまじい暴力には触れません。

昨日、地下鉄車両の中まで入り込んで

デモ参加者に何人もの警官がよってたかって暴行を加えた動画は

ネットで全世界に流されていますが、

悲しいかな、肝心の中華人民共和国の人民だけはなんにも知らないのです。

そして、下の写真のように香港の中学生や高校生までが

校門前で登校拒否をして抗議活動をしていることも……。

このブログももはやVPNを使わなければ見ることができません。

 

 

 

 

 

 

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「海の自然の使者が問いかけるもの」No.2409

2019-09-04 00:00:04 | 自然

「辺野古ブルー」のCさんが海での抗議活動のさ中、

幸運にも回り逢った海の自然の使者の写真をフェイスブックに掲載されていたので

お借りしました。

辺野古大浦湾の海で、毎日、海への赤土投入を一分でも一秒でも具体的に遅らせるため

木の葉のようなカヌーを漕ぎ出すカヌーチーム「辺野古ブルー」。

容赦ない陽光を帽子ごときでは遮れるわけもなく、

みんな、健康な日焼けレベルをはるか超えているはずです。

沖縄の新基地建設は、

アベ政権による沖縄県民の人権蹂躙であり、

沖縄の自然の蹂躙です。

山本太郎さん的に言えばアベ政権によるDVです。

「人権」「自然」と、言えば簡単ですが、

本当に大切で、お金だのと交換できる安物ではないのですから、

そこのところをみんな、よくよく感じ取って

アベ政権を具体的に止めさせなければ、DVは続くよ、どこまでもです。

 

↓中国山東省の西の端の地方都市、菏澤の小さい大学のキャンパスにも

自然は巡っています。

今年は石榴の実がどれもこれも大きいのですが誰も取りません。

皆、もう少し熟するのを待っているのでしょうか、私のように。

 

 

 

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「去年の中秋節の月餅の小箱で作ってみた」No.2408

2019-09-02 23:56:39 | 中国事情

2日間もパブロン飲んで臥せっているうちにムクムクと力が内から沸き起こり、

昨日は午後からコースターを作ってみました。

上の6枚+右下の裏向き1枚は、

去年の中秋節にもらった月餅の小箱を取ってあったので

その模様を使ったのです。

裏には日本から持ってきた和紙折り紙を貼りました。

月餅模様の7枚以外は

お菓子の空き箱のしっかりしたのを土台にして、

折り紙をペタペタ貼りました。

空き箱も一応取っておき、半年に一度くらいまとめて捨てます(笑)。

去年から作ろう、作ろうと思っているうちに、

また中秋節の季節がやってきました。

今年も誰かすてきな模様の月餅の箱をくれますように。

 

 

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 「壺井繁治の『十五円五十銭』:関東大震災の日に」No.2407

2019-09-02 01:59:48 | 文学

1923年9月1日の関東大震災日に始まり、

その後続いた朝鮮人狩り、社会主義者狩りについて

学校で具体的にあったことを教わった方は

いらっしゃるでしょうか。

残念でたまりませんが、私は一度も学びませんでした。

従って、教師になっても教えることができませんでした。

この詩の作者、壺井繁治さんは最後に次のように語っています。

無惨に殺ろされた朝鮮の仲間たちよ

君たち自身の口で

君たち自身が生身にうけた残虐を語れぬならば

君たちに代って語る者に語らせよう

いまこそ

押しつけられた日本語の代りに

奪いかえした

親譲りの

純粋の朝鮮語で

 

そして、壺井さん自身も

殺されて、生身に受けた残虐を語れない「朝鮮の仲間たちに代わって」

と言うにはあまりにおこがましい日本人の立場なれど

見たこと、体験した具体的なことを

皆に伝える責任があると考えてこの詩を書いたのだと思います。

私は昨日フェイスブック友達の記事で

この「散歩の変人」さんのブログの

壺井繁治さんの詩『十五円五十銭』に辿り着きました。

読んだ限りは私も、

一人でも多くの方に伝える責任の一端を背負うべきだと思います。

東京都の小池知事は、

「関東大震災で亡くなった人全てに哀悼の意を表しているので必要ない」

と、歴代知事が送っていた追悼式典への追悼文も3年連続行っていません。

震災という自然災害の被害者と虐殺被害者が同じなわけないでしょう。

小池知事はこの事件をどれほど深く調べたのでしょうか。

主義主張の前に客観的事実をきちんと学ぶことが

少なくとも日本の政治家にとって必須であるにもかかわらず、

何も学ばず、都合のいいところの切り取りか歪曲を

そのまま全てだと信じる妄信宗教家みたいなのが

跋扈している日本。

馬鹿丸出しの国になるはずです。

 

関東大震災と虐殺 51 

散歩の変人sabasaba13.exblog.jp

 
 壺井繁治の『十五円五十銭』です。
十五円五十銭

一九二三年九月一日
正午二分前の一瞬
地球の一部分がはげしく身ぶるいした
関東一帯をゆすぶる大地震
この災厄を誰が予知したであろう

その日の明け方
物凄い豪雨がやってきた
それは地上にあるすべてのものを
一挙に押し流そうとするほどの勢いで降りつづいた
すべてのひとびとがなお眠り呆けている中を
その眠りさえも押し流そうとするほどの勢いで
なにゆえか眠れず
夜中から朝へかけて
僕は詩を書きつづけた
売れるか売れぬか当てにならぬ詩の一行一行を
雨は一瞬の休みもなく降りつづいた
すべての物音をかき消して
ただ雨の音のみが全世界を支配するかのように
その中を
上野動物園のライオンの遠吠えがきれぎれにきこえてきた
今にして思えば
その野獣は
地震計よりも正確に
その鋭い感覚によって
すでにあの地震を予知していたのかも知れない
それとは知らず
未開の森林でひとり目を覚ましているような不安の中で詩を書きつづけ
ひとびとが目をさましはじめたころ
僕はやっと眠りについた

前後不覚の深い眠りから
僕をゆりおこしたのはあの大地震だった
僕が目をさましたとき
すでに部屋の壁は音を立てながら崩れ落ち
如何ともしがたい力をもって僕の全感覚に迫ってきた
僕を支えるものは
がたがたと激しい音を立てて左右に揺れる柱だけであった
-もうおしまいだ!
ただそれだけの絶望感だけだった
ひとしきり揺れに揺れた後で
地震はようやくしずまった
そのしずまりのすきをねらって下宿をとびだした
崖をおりるように壊れた階段を伝って
するとまたもや地軸を鳴らす大動揺がやってきた
往来の電柱がまるで箸を動かすように
左右に大きく揺れ動くのが錯覚のように映った

僕はその夜、上野の山で一夜を明かした
上野駅が見おろせる崖っぷちにたって
とめ度なくひろがってゆく火事を眺めていると
あまりに強い火の刺激に頭がしびれてきた
浅草・下谷の家並みをなめつくす火は
一里を先を燃えているように見えるのに
僕の頬っぺたにほてりをさえ感じた
どちらを眺めても
東京の街々はいつ消えるとも知れぬ火の海であり
それを眺める群衆のわいわい騒ぎにまじって
僕は何を考えるでもなく
ただぼんやりと炎の大群団から眼をはなすことができなかった
火、火、火…
ただそれだけの眺めなのに
僕の瞳はいつまでも
火の方へ吸いよせられていた

この火事がまだおさまらぬうちに
はやくも流言蜚語が市中を乱れとんだ
-横浜方面から鮮人が群をなして押しよせてくる!
-目黒競馬場附近に三、四百もの「不逞鮮人」があつまって
  何か不穏な気勢をあげている!
-鮮人が家々の井戸に毒物を投げこんでいるから、飲み水に気をつけろ!
-社会主義者が暴動を起そうとしているから、警戒しろ!
これらの噂はまことしやかに
ひとからひとに伝えられていった
僕が友だちの安否を気づかって
牛込弁天町の下宿を訪ねたとき
そこでもその噂でもちきりだった
その友と連れだって
僕は壊れた街へ出た
ひとびとはただ街中を右往左往していた
それはまるで荒びたお祭りであった
しかもそのお祭り騒ぎを支配するものは戒厳令であった
銃剣をもって固められた戒厳令であった
僕らが矢来下から
音羽へ通ずる橋の手前に設けられた戒厳屯所を通りすぎると
-こらッ! 待て!
と呼びとめられた
驚ろいて振りかえると
剣付鉄砲を肩に担った兵隊が
-貴様! 鮮人だろう?
と詰めよってきた
僕はその時、長髪に水色ルパーシュカを身にまとっていた
それは誰が見てもひと目で注意をひく異様な風体であった
僕はその異様な自分の姿にはじめて気がついて愕然とした
僕は衛兵の威圧的な訊問にどぎまぎしながらも
-いいえ、日本人です、日本人です
と必死になって弁解した
かたわらの友人も僕のために弁じてくれた
そして僕らはようやく危い関所を通過した

僕は兵隊に呼びとめられたときの恐ろしさよりも
その後の恐ろしさに魂までふるえる思いだった
-こんなところにうろうろしていたら
  いのちがあぶないぞ!
自分で自分にいいきかせながら友と別れた
僕はもう一人の友の安否をたずねねばならなかったから
僕は身をひそめるような思いで
わきめもふらずにすたすたと
護国寺の方へむかって道を急いだ
行先は滝野川であった
すると向こうからラッパの音を先頭に
騎兵の大集団が行進してきた
音羽八丁を埋めつくす騎兵集団の行進は
今にも市街戦でもはじまるかと思われる殺気だった雰囲気を
街中にまきちらした
この殺気だった雰囲気にさらに殺気をそえたものは
辻々に張りめぐらされた張紙あった
-暴徒アリ放火掠奪ヲ逞シフス市民各位当局ニ協力シテコレガ鎮圧ニ務メラレヨ
それは警察の掲示板にも張られてあった
僕はこのときはじめて確認した
どこからともなくまきちらされた流言蜚語の火元がどこであったかを

滝野川の友の家は幸い無事であったが
新たな災厄がその家のまわりをうろついていた
その友は社会主義者であり
日ごろから怪し気な人間が大勢その家に出入りするということで
近所から眼を光らされていたから
鮮人騒ぎ、社会主義者騒ぎは
刻一刻と市民の間にひろがる一方であり
僕はこの家にも安閑と腰をすえてはいられなかった
どこやらで朝鮮人の一団が
針金で数珠つなぎに縛りあげられ
河の中へたたきこまれたという噂をきいたのも
この友の家であった
僕は禍のもととなるだろうルパーシュカをぬぎすて
浴衣と袴と黒いソフト帽を借り
その帽子をまぶかにかぶって長髪をかくし
そしてふたたび
牛込弁天町の下宿へひきかえした

その途中、富坂辺で
野次馬に取りまかれ
鳶口を背中から打ちこまれ
みずからの血溜りの中に倒れてゆく朝鮮の人夫風の男をこの眼で見た
それはそこだけでなく
いたるところで行われたテロルであったのだ

災厄の上に新たな災厄の重ねられつつあった東京を後にして
田端駅から避難列車に乗りこんだのは九月五日の朝であった
ここでも野蛮な眼がぎょろぎょろ光っていた
-こん中にだって主義者や鮮人どもがもぐりこんでいるかも知れんぞ!
身動きもできぬ車中でのこの放言に
僕は胸のまん中に釘を打ちこまれる思いをし
思わずまぶかにかぶっている帽子のツバをさらにまぶかにひきおろした
髪の長いということが
社会主義者の一つのめじるしであったから

汽車が駅に着くたびに
剣付鉄砲がホームから車内をのぞきこんだ
怪し気な人間がもぐりこんでいないかと
あれは、いったいどこの駅だったろう
僕らの列車がある小さな駅にとまると
例の通り剣付鉄砲の兵隊が車内検索にやってきた
彼は牛のように大きな眼をしていた
その大きな眼で車内をじろじろ見まわしていたが
突然、僕の隣りにしゃがんでいる印袢天の男を指して怒鳴った
-十五円五十銭いってみろ!
指されたその男は
兵隊の訊問があまりに奇妙で、突飛なので
その意味がなかなかつかめず
しばらくの間、ぼんやりしていたが
やがて立派な日本語で答えた
-ジュウゴエンゴジッセン
-よし!
剣付鉄砲のたちさった後で
僕は隣りの男の顔を横目で見ながら
-ジュウゴエンゴジッセン
ジュウゴエンゴジッセン
と、何度もこころの中でくりかえしてみた
そしてその訊問の意味がようやくのみこめた
ああ、若しその印袢天が朝鮮人だったら
「チュウコエンコチッセン」と発音したならば
彼はその場からすぐ引きたてられていったであろう

国を奪われ
言葉を奪われ
最後に生命まで奪われた朝鮮の犠牲者よ
僕はその数をかぞえることはできぬ

あのときから早や二十四年たった
そしてそれらの骨は
もう土となってしまったであろうか
たとえ土となっても
なお消えぬ恨みに疼いているかも知れぬ
君たちを偲んで
ここに集まる僕らの胸の疼きと共に

君たちを殺したのは野次馬だというのか?
野次馬に竹槍を持たせ、鳶口を握らせ、日本刀をふるわせたのは誰であったか?
僕はそれを知っている
「ザブトン」という日本語を
「サフトン」としか発音できなかったがために
勅語を読まされて
それを読めなかったがために
ただそれだけのために
無惨に殺ろされた朝鮮の仲間たちよ
君たち自身の口で
君たち自身が生身にうけた残虐を語れぬならば
君たちに代って語る者に語らせよう
いまこそ
押しつけられた日本語の代りに
奪いかえした
親譲りの
純粋の朝鮮語で

『壺井繁治詩集』 p.34~ (青木文庫)
https://sabasaba13.exblog.jp/28632864/
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「ヨーロッパ人『慰安婦』オハーンさん死去」No.2406

2019-09-02 00:01:50 | 人権

米ワシントンで記者会見するジャン・ラフ・オハーンさん(左)。(2007年2月16日)


半世紀にわたり、「恥というとてつもなく大きな負担」を負い続けたオハーンさん。

「あまりにも恥ずかしかった。カウンセリングなどなく、

私たちはまるで何事もなかったかのように生きることを期待されていた」

1990年代に入り、高齢の韓国人女性たちが声をあげても、

まず、まともに話を聞こうともしなかった日本政府。

ヨーロッパにも同様に性奴隷にされた女性がいると名乗り出ることで

姿勢を正させようとオハーンさんは考えたそうです。

日本政府のアジア蔑視をちゃんと見抜いていたんですね。

オハーンさんは、戦争当時オランダ領東インド諸島のジャワ島で生まれ、

日本がその島を支配したとき、強制労働収用所に入れられましたが、

1944年、オハーンさんを含む独身女性10人が連行されて

3ヶ月間日本軍将校たちにレイプされ続けました。

日本では「慰安婦」は全てプロの売春婦だったとする意見がありますが、

このように強制連行された体験も多くの女性たちから聞いています。

また、韓国では韓国人業者が日本軍の意向を受けて

斡旋した例(病院勤務などと言われた例もあり)も多かったようです。

これら全て含めて、戦時下の日本軍に責任があると私は考えます。

「半世紀も黙っていて、何で今頃言い出すんだ。お金目当てだろう」

という日本人の声ほどさもしいものはありません(たいがい男です)。

女性にとって、無理やり性の相手をさせられる(=レイプされる)ということは

どれほどの屈辱か、ちょっとでも想像したら

何十年経とうが忘れることなど不可能であり、

誰にも言えない、口にも出せない恥だということぐらい

何でわからんのですかね。

女性を性の道具として考える者どもの愚か極まりない発想です。

今も、日本中にウヨウヨいるわね。

下はThe Telegragh(英国のDaily Telegraghのオンライン版)の関連記事です。

 

欧州人として初めて「慰安婦」としての体験を語った

ジャン・ラフ・オハーンさん、96歳で死去。

9/1(日) 11:04配信 

1942年、オランダ領東インド諸島のジャワ島に日本軍が侵攻した時、サトウキビ農園で家族と共に暮らしていたオランダ人のジャン・ラフ・オハーンさんは、19歳だった。2年後、オハーンさんは抑留されていた強制労働収容所から連れ出され、いわゆる「慰安婦」として日本兵の性の相手となることを強要された。オハーンさんは先月、96歳で亡くなった。

多くの被害者同様、オハーンさんも半世紀近くにわたり、沈黙の中で苦しんだ。だが、1992年、声を上げようと決意した高齢の韓国人女性3人がインタビューを受けている姿をテレビで見て、オハーンさんは欧州人として初めて、日本軍にレイプされ、おとしめられたことを公にした。

「日本は韓国人女性に耳を貸そうとしなかった」とオハーンさんは後に振り返っている。「でも、欧州人女性が前に出て『ちょっと待って、あなたたちはアジア人女性だけにそんなことをしたわけじゃない。欧州人女性、オランダ人の少女にもした』と言えば、彼らは姿勢を正して話を聞くと、私には分かっていた。そしてそうなった」

オハーンさんは1923年1月18日、ジャワ島西部のバンドンで、敬虔(けいけん)なローマ・カトリック教徒の家庭に生まれた。成長する中で、修道女になりたいと思うようになった。1942年3月にジャワ島が日本の手に落ちると、オハーンさんと母親、2人の妹は敵国の非戦闘員として、強制労働収容所に抑留された。1944年2月、日本軍の将校が収容所にやって来て、17~21歳の独身女性は全員、検査のために並ぶよう命令した。「将校は、それぞれの女の子を調べながら、列の前を何度も行ったり来たりした」と回顧録「オランダ人『慰安婦』ジャンの物語」で、オハーンさんは当時のことをつづっている。

「彼らは今、私のすぐ目の前に立っている。そのうちの一人が、私の顔を見るために棒で私の顎を上げた。そこに立ってにやにやしながら、私の脚、顔、体を見ている。ああ神様、と私は祈った。どうか彼らに私を連れて行かせないで」
収容所にいた修道女が日本軍司令官に働きかけたにもかかわらず、オハーンさんを含む10人の若い女性が、軍用車両に乗せられ連行された。

オハーンさんと他6人の女性は、ジャワ島のスマランにあったオランダのコロニアル様式の邸宅へ連れていかれた。そこは、陸軍将校用の売春宿に転用されていた。「私たちは皆、処女だった。あまりにも純粋だった」とオハーンさんは振り返る。「皆で、これから自分たちの身に何が起こるのかを考えた。今日まで、あの恐怖を忘れたことは一度もない」

初めての夜、日本軍の将校が到着すると、オハーンさんは怖がる少女たちをリードして、詩編27編「主は私の光、私の救い。私は誰を恐れよう」を暗唱した。
しばらくして、1人の日本人将校がオハーンさんに近づき、刀を抜いた。「将校は私の上に立ちはだかり、刀を私の体に向けていた。将校に向かってジェスチャーで、死ぬ前に祈りをささげさせてほしいと頼んだ。刀が肌に触れる中、私は祈るためにひざまずいた。将校はいらつき始めた。彼は私をベッドに投げつけ、私の服を引き裂いた。これほどの非人道的で暴力的なレイプは、言葉で表現できない」

その後3か月にわたり、女性たちは繰り返しレイプされた。自分の外見を醜く見せるために、オハーンさんは髪をそったこともあったが、相手の気をそぐ代わりに、余計にその気にさせてしまったようだった。

3か月後、軍高官が何度か視察に訪れた後、女性たちは荷物をまとめるよう指示された。捕虜収容所にいる家族の元へ返されたが、何が起こったかを口外すれば、家族もろとも殺すと脅された。「沈黙はあのとき、あの場所で始まった。私たちに無理やり押し付けられた沈黙が」とオハーンさんは振り返っている。

オハーンさんは、秘密を母親とカトリックの神父に打ち明けた。母親は打ちひしがれ、神父はやっと次のように答えた。「私の愛しい子よ、そのような状況ならば、修道女にならない方がいいと思う」

何十年経っても見る悪夢

 終戦後、オハーンさんはトム・ラフさんと出会った。ビルマ(現ミャンマー)の戦いに参加した英国人兵士で、インドネシアを占領していた英国軍に属していた。2人は1946年に結婚して英国に住んだ後、1960年にオーストラリアへ移住。オハーンさんはそこで、カトリック系小学校の教師となった。オハーンさんは結婚前、戦時中に起こったことをラフさんに打ち明け、辛抱強くいてくれるよう頼んだ。数十年の時が過ぎても、オハーンさんは悪夢を見続けた。

夫婦は何年も子どもを授かろうとしたが、日本人の手によって被った臓器の損傷により、オハーンさんは幾度となく流産。だが、手術を受け、2人の娘を授かった。オハーンさんは50年にわたり、「恥というとてつもなく大きな負担」を負い続けた。「あまりにも恥ずかしかった。カウンセリングなどなく、私たちはまるで何事もなかったかのように生きることを期待されていた」

1992年、オハーンさんはついに口を開く決意をした。最初に娘たちに秘密を打ち明け、その後、日本弁護士連合会が主催した公聴会に出席するため、東京へ向かった。

その後20年間、オハーンさんは世界中を回り、戦時中のレイプに反対する活動や、完全な謝罪と補償を求めるすべての元「慰安婦」を支援する活動を行った。2007年には米首都ワシントンへ行き、2人の韓国人女性と共に、米連邦議会公聴会で証言した。

日本政府は1998年、オランダ人「慰安婦」に対する2億5500万円規模の補償事業を実施したが、オハーンさんは参加を拒否。被害者の口を封じようとする誠意のない試みだとして、非難した。

オハーンさんは2001年、オランダ政府からオレンジ・ナッソー勲章を、2002年にはオーストラリア勲章の「オフィサー」をそれぞれ受章した。
オハーンさんの夫であるラフさんは1995年に死亡しているが、娘2人は存命している。【翻訳編集】AFPBB News

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