毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「去年の中秋節の月餅の小箱で作ってみた」No.2408

2019-09-02 23:56:39 | 中国事情

2日間もパブロン飲んで臥せっているうちにムクムクと力が内から沸き起こり、

昨日は午後からコースターを作ってみました。

上の6枚+右下の裏向き1枚は、

去年の中秋節にもらった月餅の小箱を取ってあったので

その模様を使ったのです。

裏には日本から持ってきた和紙折り紙を貼りました。

月餅模様の7枚以外は

お菓子の空き箱のしっかりしたのを土台にして、

折り紙をペタペタ貼りました。

空き箱も一応取っておき、半年に一度くらいまとめて捨てます(笑)。

去年から作ろう、作ろうと思っているうちに、

また中秋節の季節がやってきました。

今年も誰かすてきな模様の月餅の箱をくれますように。

 

 

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 「壺井繁治の『十五円五十銭』:関東大震災の日に」No.2407

2019-09-02 01:59:48 | 文学

1923年9月1日の関東大震災日に始まり、

その後続いた朝鮮人狩り、社会主義者狩りについて

学校で具体的にあったことを教わった方は

いらっしゃるでしょうか。

残念でたまりませんが、私は一度も学びませんでした。

従って、教師になっても教えることができませんでした。

この詩の作者、壺井繁治さんは最後に次のように語っています。

無惨に殺ろされた朝鮮の仲間たちよ

君たち自身の口で

君たち自身が生身にうけた残虐を語れぬならば

君たちに代って語る者に語らせよう

いまこそ

押しつけられた日本語の代りに

奪いかえした

親譲りの

純粋の朝鮮語で

 

そして、壺井さん自身も

殺されて、生身に受けた残虐を語れない「朝鮮の仲間たちに代わって」

と言うにはあまりにおこがましい日本人の立場なれど

見たこと、体験した具体的なことを

皆に伝える責任があると考えてこの詩を書いたのだと思います。

私は昨日フェイスブック友達の記事で

この「散歩の変人」さんのブログの

壺井繁治さんの詩『十五円五十銭』に辿り着きました。

読んだ限りは私も、

一人でも多くの方に伝える責任の一端を背負うべきだと思います。

東京都の小池知事は、

「関東大震災で亡くなった人全てに哀悼の意を表しているので必要ない」

と、歴代知事が送っていた追悼式典への追悼文も3年連続行っていません。

震災という自然災害の被害者と虐殺被害者が同じなわけないでしょう。

小池知事はこの事件をどれほど深く調べたのでしょうか。

主義主張の前に客観的事実をきちんと学ぶことが

少なくとも日本の政治家にとって必須であるにもかかわらず、

何も学ばず、都合のいいところの切り取りか歪曲を

そのまま全てだと信じる妄信宗教家みたいなのが

跋扈している日本。

馬鹿丸出しの国になるはずです。

 

関東大震災と虐殺 51 

散歩の変人sabasaba13.exblog.jp

 
 壺井繁治の『十五円五十銭』です。
十五円五十銭

一九二三年九月一日
正午二分前の一瞬
地球の一部分がはげしく身ぶるいした
関東一帯をゆすぶる大地震
この災厄を誰が予知したであろう

その日の明け方
物凄い豪雨がやってきた
それは地上にあるすべてのものを
一挙に押し流そうとするほどの勢いで降りつづいた
すべてのひとびとがなお眠り呆けている中を
その眠りさえも押し流そうとするほどの勢いで
なにゆえか眠れず
夜中から朝へかけて
僕は詩を書きつづけた
売れるか売れぬか当てにならぬ詩の一行一行を
雨は一瞬の休みもなく降りつづいた
すべての物音をかき消して
ただ雨の音のみが全世界を支配するかのように
その中を
上野動物園のライオンの遠吠えがきれぎれにきこえてきた
今にして思えば
その野獣は
地震計よりも正確に
その鋭い感覚によって
すでにあの地震を予知していたのかも知れない
それとは知らず
未開の森林でひとり目を覚ましているような不安の中で詩を書きつづけ
ひとびとが目をさましはじめたころ
僕はやっと眠りについた

前後不覚の深い眠りから
僕をゆりおこしたのはあの大地震だった
僕が目をさましたとき
すでに部屋の壁は音を立てながら崩れ落ち
如何ともしがたい力をもって僕の全感覚に迫ってきた
僕を支えるものは
がたがたと激しい音を立てて左右に揺れる柱だけであった
-もうおしまいだ!
ただそれだけの絶望感だけだった
ひとしきり揺れに揺れた後で
地震はようやくしずまった
そのしずまりのすきをねらって下宿をとびだした
崖をおりるように壊れた階段を伝って
するとまたもや地軸を鳴らす大動揺がやってきた
往来の電柱がまるで箸を動かすように
左右に大きく揺れ動くのが錯覚のように映った

僕はその夜、上野の山で一夜を明かした
上野駅が見おろせる崖っぷちにたって
とめ度なくひろがってゆく火事を眺めていると
あまりに強い火の刺激に頭がしびれてきた
浅草・下谷の家並みをなめつくす火は
一里を先を燃えているように見えるのに
僕の頬っぺたにほてりをさえ感じた
どちらを眺めても
東京の街々はいつ消えるとも知れぬ火の海であり
それを眺める群衆のわいわい騒ぎにまじって
僕は何を考えるでもなく
ただぼんやりと炎の大群団から眼をはなすことができなかった
火、火、火…
ただそれだけの眺めなのに
僕の瞳はいつまでも
火の方へ吸いよせられていた

この火事がまだおさまらぬうちに
はやくも流言蜚語が市中を乱れとんだ
-横浜方面から鮮人が群をなして押しよせてくる!
-目黒競馬場附近に三、四百もの「不逞鮮人」があつまって
  何か不穏な気勢をあげている!
-鮮人が家々の井戸に毒物を投げこんでいるから、飲み水に気をつけろ!
-社会主義者が暴動を起そうとしているから、警戒しろ!
これらの噂はまことしやかに
ひとからひとに伝えられていった
僕が友だちの安否を気づかって
牛込弁天町の下宿を訪ねたとき
そこでもその噂でもちきりだった
その友と連れだって
僕は壊れた街へ出た
ひとびとはただ街中を右往左往していた
それはまるで荒びたお祭りであった
しかもそのお祭り騒ぎを支配するものは戒厳令であった
銃剣をもって固められた戒厳令であった
僕らが矢来下から
音羽へ通ずる橋の手前に設けられた戒厳屯所を通りすぎると
-こらッ! 待て!
と呼びとめられた
驚ろいて振りかえると
剣付鉄砲を肩に担った兵隊が
-貴様! 鮮人だろう?
と詰めよってきた
僕はその時、長髪に水色ルパーシュカを身にまとっていた
それは誰が見てもひと目で注意をひく異様な風体であった
僕はその異様な自分の姿にはじめて気がついて愕然とした
僕は衛兵の威圧的な訊問にどぎまぎしながらも
-いいえ、日本人です、日本人です
と必死になって弁解した
かたわらの友人も僕のために弁じてくれた
そして僕らはようやく危い関所を通過した

僕は兵隊に呼びとめられたときの恐ろしさよりも
その後の恐ろしさに魂までふるえる思いだった
-こんなところにうろうろしていたら
  いのちがあぶないぞ!
自分で自分にいいきかせながら友と別れた
僕はもう一人の友の安否をたずねねばならなかったから
僕は身をひそめるような思いで
わきめもふらずにすたすたと
護国寺の方へむかって道を急いだ
行先は滝野川であった
すると向こうからラッパの音を先頭に
騎兵の大集団が行進してきた
音羽八丁を埋めつくす騎兵集団の行進は
今にも市街戦でもはじまるかと思われる殺気だった雰囲気を
街中にまきちらした
この殺気だった雰囲気にさらに殺気をそえたものは
辻々に張りめぐらされた張紙あった
-暴徒アリ放火掠奪ヲ逞シフス市民各位当局ニ協力シテコレガ鎮圧ニ務メラレヨ
それは警察の掲示板にも張られてあった
僕はこのときはじめて確認した
どこからともなくまきちらされた流言蜚語の火元がどこであったかを

滝野川の友の家は幸い無事であったが
新たな災厄がその家のまわりをうろついていた
その友は社会主義者であり
日ごろから怪し気な人間が大勢その家に出入りするということで
近所から眼を光らされていたから
鮮人騒ぎ、社会主義者騒ぎは
刻一刻と市民の間にひろがる一方であり
僕はこの家にも安閑と腰をすえてはいられなかった
どこやらで朝鮮人の一団が
針金で数珠つなぎに縛りあげられ
河の中へたたきこまれたという噂をきいたのも
この友の家であった
僕は禍のもととなるだろうルパーシュカをぬぎすて
浴衣と袴と黒いソフト帽を借り
その帽子をまぶかにかぶって長髪をかくし
そしてふたたび
牛込弁天町の下宿へひきかえした

その途中、富坂辺で
野次馬に取りまかれ
鳶口を背中から打ちこまれ
みずからの血溜りの中に倒れてゆく朝鮮の人夫風の男をこの眼で見た
それはそこだけでなく
いたるところで行われたテロルであったのだ

災厄の上に新たな災厄の重ねられつつあった東京を後にして
田端駅から避難列車に乗りこんだのは九月五日の朝であった
ここでも野蛮な眼がぎょろぎょろ光っていた
-こん中にだって主義者や鮮人どもがもぐりこんでいるかも知れんぞ!
身動きもできぬ車中でのこの放言に
僕は胸のまん中に釘を打ちこまれる思いをし
思わずまぶかにかぶっている帽子のツバをさらにまぶかにひきおろした
髪の長いということが
社会主義者の一つのめじるしであったから

汽車が駅に着くたびに
剣付鉄砲がホームから車内をのぞきこんだ
怪し気な人間がもぐりこんでいないかと
あれは、いったいどこの駅だったろう
僕らの列車がある小さな駅にとまると
例の通り剣付鉄砲の兵隊が車内検索にやってきた
彼は牛のように大きな眼をしていた
その大きな眼で車内をじろじろ見まわしていたが
突然、僕の隣りにしゃがんでいる印袢天の男を指して怒鳴った
-十五円五十銭いってみろ!
指されたその男は
兵隊の訊問があまりに奇妙で、突飛なので
その意味がなかなかつかめず
しばらくの間、ぼんやりしていたが
やがて立派な日本語で答えた
-ジュウゴエンゴジッセン
-よし!
剣付鉄砲のたちさった後で
僕は隣りの男の顔を横目で見ながら
-ジュウゴエンゴジッセン
ジュウゴエンゴジッセン
と、何度もこころの中でくりかえしてみた
そしてその訊問の意味がようやくのみこめた
ああ、若しその印袢天が朝鮮人だったら
「チュウコエンコチッセン」と発音したならば
彼はその場からすぐ引きたてられていったであろう

国を奪われ
言葉を奪われ
最後に生命まで奪われた朝鮮の犠牲者よ
僕はその数をかぞえることはできぬ

あのときから早や二十四年たった
そしてそれらの骨は
もう土となってしまったであろうか
たとえ土となっても
なお消えぬ恨みに疼いているかも知れぬ
君たちを偲んで
ここに集まる僕らの胸の疼きと共に

君たちを殺したのは野次馬だというのか?
野次馬に竹槍を持たせ、鳶口を握らせ、日本刀をふるわせたのは誰であったか?
僕はそれを知っている
「ザブトン」という日本語を
「サフトン」としか発音できなかったがために
勅語を読まされて
それを読めなかったがために
ただそれだけのために
無惨に殺ろされた朝鮮の仲間たちよ
君たち自身の口で
君たち自身が生身にうけた残虐を語れぬならば
君たちに代って語る者に語らせよう
いまこそ
押しつけられた日本語の代りに
奪いかえした
親譲りの
純粋の朝鮮語で

『壺井繁治詩集』 p.34~ (青木文庫)
https://sabasaba13.exblog.jp/28632864/
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「ヨーロッパ人『慰安婦』オハーンさん死去」No.2406

2019-09-02 00:01:50 | 人権

米ワシントンで記者会見するジャン・ラフ・オハーンさん(左)。(2007年2月16日)


半世紀にわたり、「恥というとてつもなく大きな負担」を負い続けたオハーンさん。

「あまりにも恥ずかしかった。カウンセリングなどなく、

私たちはまるで何事もなかったかのように生きることを期待されていた」

1990年代に入り、高齢の韓国人女性たちが声をあげても、

まず、まともに話を聞こうともしなかった日本政府。

ヨーロッパにも同様に性奴隷にされた女性がいると名乗り出ることで

姿勢を正させようとオハーンさんは考えたそうです。

日本政府のアジア蔑視をちゃんと見抜いていたんですね。

オハーンさんは、戦争当時オランダ領東インド諸島のジャワ島で生まれ、

日本がその島を支配したとき、強制労働収用所に入れられましたが、

1944年、オハーンさんを含む独身女性10人が連行されて

3ヶ月間日本軍将校たちにレイプされ続けました。

日本では「慰安婦」は全てプロの売春婦だったとする意見がありますが、

このように強制連行された体験も多くの女性たちから聞いています。

また、韓国では韓国人業者が日本軍の意向を受けて

斡旋した例(病院勤務などと言われた例もあり)も多かったようです。

これら全て含めて、戦時下の日本軍に責任があると私は考えます。

「半世紀も黙っていて、何で今頃言い出すんだ。お金目当てだろう」

という日本人の声ほどさもしいものはありません(たいがい男です)。

女性にとって、無理やり性の相手をさせられる(=レイプされる)ということは

どれほどの屈辱か、ちょっとでも想像したら

何十年経とうが忘れることなど不可能であり、

誰にも言えない、口にも出せない恥だということぐらい

何でわからんのですかね。

女性を性の道具として考える者どもの愚か極まりない発想です。

今も、日本中にウヨウヨいるわね。

下はThe Telegragh(英国のDaily Telegraghのオンライン版)の関連記事です。

 

欧州人として初めて「慰安婦」としての体験を語った

ジャン・ラフ・オハーンさん、96歳で死去。

9/1(日) 11:04配信 

1942年、オランダ領東インド諸島のジャワ島に日本軍が侵攻した時、サトウキビ農園で家族と共に暮らしていたオランダ人のジャン・ラフ・オハーンさんは、19歳だった。2年後、オハーンさんは抑留されていた強制労働収容所から連れ出され、いわゆる「慰安婦」として日本兵の性の相手となることを強要された。オハーンさんは先月、96歳で亡くなった。

多くの被害者同様、オハーンさんも半世紀近くにわたり、沈黙の中で苦しんだ。だが、1992年、声を上げようと決意した高齢の韓国人女性3人がインタビューを受けている姿をテレビで見て、オハーンさんは欧州人として初めて、日本軍にレイプされ、おとしめられたことを公にした。

「日本は韓国人女性に耳を貸そうとしなかった」とオハーンさんは後に振り返っている。「でも、欧州人女性が前に出て『ちょっと待って、あなたたちはアジア人女性だけにそんなことをしたわけじゃない。欧州人女性、オランダ人の少女にもした』と言えば、彼らは姿勢を正して話を聞くと、私には分かっていた。そしてそうなった」

オハーンさんは1923年1月18日、ジャワ島西部のバンドンで、敬虔(けいけん)なローマ・カトリック教徒の家庭に生まれた。成長する中で、修道女になりたいと思うようになった。1942年3月にジャワ島が日本の手に落ちると、オハーンさんと母親、2人の妹は敵国の非戦闘員として、強制労働収容所に抑留された。1944年2月、日本軍の将校が収容所にやって来て、17~21歳の独身女性は全員、検査のために並ぶよう命令した。「将校は、それぞれの女の子を調べながら、列の前を何度も行ったり来たりした」と回顧録「オランダ人『慰安婦』ジャンの物語」で、オハーンさんは当時のことをつづっている。

「彼らは今、私のすぐ目の前に立っている。そのうちの一人が、私の顔を見るために棒で私の顎を上げた。そこに立ってにやにやしながら、私の脚、顔、体を見ている。ああ神様、と私は祈った。どうか彼らに私を連れて行かせないで」
収容所にいた修道女が日本軍司令官に働きかけたにもかかわらず、オハーンさんを含む10人の若い女性が、軍用車両に乗せられ連行された。

オハーンさんと他6人の女性は、ジャワ島のスマランにあったオランダのコロニアル様式の邸宅へ連れていかれた。そこは、陸軍将校用の売春宿に転用されていた。「私たちは皆、処女だった。あまりにも純粋だった」とオハーンさんは振り返る。「皆で、これから自分たちの身に何が起こるのかを考えた。今日まで、あの恐怖を忘れたことは一度もない」

初めての夜、日本軍の将校が到着すると、オハーンさんは怖がる少女たちをリードして、詩編27編「主は私の光、私の救い。私は誰を恐れよう」を暗唱した。
しばらくして、1人の日本人将校がオハーンさんに近づき、刀を抜いた。「将校は私の上に立ちはだかり、刀を私の体に向けていた。将校に向かってジェスチャーで、死ぬ前に祈りをささげさせてほしいと頼んだ。刀が肌に触れる中、私は祈るためにひざまずいた。将校はいらつき始めた。彼は私をベッドに投げつけ、私の服を引き裂いた。これほどの非人道的で暴力的なレイプは、言葉で表現できない」

その後3か月にわたり、女性たちは繰り返しレイプされた。自分の外見を醜く見せるために、オハーンさんは髪をそったこともあったが、相手の気をそぐ代わりに、余計にその気にさせてしまったようだった。

3か月後、軍高官が何度か視察に訪れた後、女性たちは荷物をまとめるよう指示された。捕虜収容所にいる家族の元へ返されたが、何が起こったかを口外すれば、家族もろとも殺すと脅された。「沈黙はあのとき、あの場所で始まった。私たちに無理やり押し付けられた沈黙が」とオハーンさんは振り返っている。

オハーンさんは、秘密を母親とカトリックの神父に打ち明けた。母親は打ちひしがれ、神父はやっと次のように答えた。「私の愛しい子よ、そのような状況ならば、修道女にならない方がいいと思う」

何十年経っても見る悪夢

 終戦後、オハーンさんはトム・ラフさんと出会った。ビルマ(現ミャンマー)の戦いに参加した英国人兵士で、インドネシアを占領していた英国軍に属していた。2人は1946年に結婚して英国に住んだ後、1960年にオーストラリアへ移住。オハーンさんはそこで、カトリック系小学校の教師となった。オハーンさんは結婚前、戦時中に起こったことをラフさんに打ち明け、辛抱強くいてくれるよう頼んだ。数十年の時が過ぎても、オハーンさんは悪夢を見続けた。

夫婦は何年も子どもを授かろうとしたが、日本人の手によって被った臓器の損傷により、オハーンさんは幾度となく流産。だが、手術を受け、2人の娘を授かった。オハーンさんは50年にわたり、「恥というとてつもなく大きな負担」を負い続けた。「あまりにも恥ずかしかった。カウンセリングなどなく、私たちはまるで何事もなかったかのように生きることを期待されていた」

1992年、オハーンさんはついに口を開く決意をした。最初に娘たちに秘密を打ち明け、その後、日本弁護士連合会が主催した公聴会に出席するため、東京へ向かった。

その後20年間、オハーンさんは世界中を回り、戦時中のレイプに反対する活動や、完全な謝罪と補償を求めるすべての元「慰安婦」を支援する活動を行った。2007年には米首都ワシントンへ行き、2人の韓国人女性と共に、米連邦議会公聴会で証言した。

日本政府は1998年、オランダ人「慰安婦」に対する2億5500万円規模の補償事業を実施したが、オハーンさんは参加を拒否。被害者の口を封じようとする誠意のない試みだとして、非難した。

オハーンさんは2001年、オランダ政府からオレンジ・ナッソー勲章を、2002年にはオーストラリア勲章の「オフィサー」をそれぞれ受章した。
オハーンさんの夫であるラフさんは1995年に死亡しているが、娘2人は存命している。【翻訳編集】AFPBB News

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