米ワシントンで記者会見するジャン・ラフ・オハーンさん(左)。(2007年2月16日)
半世紀にわたり、「恥というとてつもなく大きな負担」を負い続けたオハーンさん。
「あまりにも恥ずかしかった。カウンセリングなどなく、
私たちはまるで何事もなかったかのように生きることを期待されていた」
1990年代に入り、高齢の韓国人女性たちが声をあげても、
まず、まともに話を聞こうともしなかった日本政府。
ヨーロッパにも同様に性奴隷にされた女性がいると名乗り出ることで
姿勢を正させようとオハーンさんは考えたそうです。
日本政府のアジア蔑視をちゃんと見抜いていたんですね。
オハーンさんは、戦争当時オランダ領東インド諸島のジャワ島で生まれ、
日本がその島を支配したとき、強制労働収用所に入れられましたが、
1944年、オハーンさんを含む独身女性10人が連行されて
3ヶ月間日本軍将校たちにレイプされ続けました。
日本では「慰安婦」は全てプロの売春婦だったとする意見がありますが、
このように強制連行された体験も多くの女性たちから聞いています。
また、韓国では韓国人業者が日本軍の意向を受けて
斡旋した例(病院勤務などと言われた例もあり)も多かったようです。
これら全て含めて、戦時下の日本軍に責任があると私は考えます。
「半世紀も黙っていて、何で今頃言い出すんだ。お金目当てだろう」
という日本人の声ほどさもしいものはありません(たいがい男です)。
女性にとって、無理やり性の相手をさせられる(=レイプされる)ということは
どれほどの屈辱か、ちょっとでも想像したら
何十年経とうが忘れることなど不可能であり、
誰にも言えない、口にも出せない恥だということぐらい
何でわからんのですかね。
女性を性の道具として考える者どもの愚か極まりない発想です。
今も、日本中にウヨウヨいるわね。
下はThe Telegragh(英国のDaily Telegraghのオンライン版)の関連記事です。
欧州人として初めて「慰安婦」としての体験を語った
ジャン・ラフ・オハーンさん、96歳で死去。
9/1(日) 11:04配信
1942年、オランダ領東インド諸島のジャワ島に日本軍が侵攻した時、サトウキビ農園で家族と共に暮らしていたオランダ人のジャン・ラフ・オハーンさんは、19歳だった。2年後、オハーンさんは抑留されていた強制労働収容所から連れ出され、いわゆる「慰安婦」として日本兵の性の相手となることを強要された。オハーンさんは先月、96歳で亡くなった。
多くの被害者同様、オハーンさんも半世紀近くにわたり、沈黙の中で苦しんだ。だが、1992年、声を上げようと決意した高齢の韓国人女性3人がインタビューを受けている姿をテレビで見て、オハーンさんは欧州人として初めて、日本軍にレイプされ、おとしめられたことを公にした。
「日本は韓国人女性に耳を貸そうとしなかった」とオハーンさんは後に振り返っている。「でも、欧州人女性が前に出て『ちょっと待って、あなたたちはアジア人女性だけにそんなことをしたわけじゃない。欧州人女性、オランダ人の少女にもした』と言えば、彼らは姿勢を正して話を聞くと、私には分かっていた。そしてそうなった」
オハーンさんは1923年1月18日、ジャワ島西部のバンドンで、敬虔(けいけん)なローマ・カトリック教徒の家庭に生まれた。成長する中で、修道女になりたいと思うようになった。1942年3月にジャワ島が日本の手に落ちると、オハーンさんと母親、2人の妹は敵国の非戦闘員として、強制労働収容所に抑留された。1944年2月、日本軍の将校が収容所にやって来て、17~21歳の独身女性は全員、検査のために並ぶよう命令した。「将校は、それぞれの女の子を調べながら、列の前を何度も行ったり来たりした」と回顧録「オランダ人『慰安婦』ジャンの物語」で、オハーンさんは当時のことをつづっている。
「彼らは今、私のすぐ目の前に立っている。そのうちの一人が、私の顔を見るために棒で私の顎を上げた。そこに立ってにやにやしながら、私の脚、顔、体を見ている。ああ神様、と私は祈った。どうか彼らに私を連れて行かせないで」
収容所にいた修道女が日本軍司令官に働きかけたにもかかわらず、オハーンさんを含む10人の若い女性が、軍用車両に乗せられ連行された。
オハーンさんと他6人の女性は、ジャワ島のスマランにあったオランダのコロニアル様式の邸宅へ連れていかれた。そこは、陸軍将校用の売春宿に転用されていた。「私たちは皆、処女だった。あまりにも純粋だった」とオハーンさんは振り返る。「皆で、これから自分たちの身に何が起こるのかを考えた。今日まで、あの恐怖を忘れたことは一度もない」
初めての夜、日本軍の将校が到着すると、オハーンさんは怖がる少女たちをリードして、詩編27編「主は私の光、私の救い。私は誰を恐れよう」を暗唱した。
しばらくして、1人の日本人将校がオハーンさんに近づき、刀を抜いた。「将校は私の上に立ちはだかり、刀を私の体に向けていた。将校に向かってジェスチャーで、死ぬ前に祈りをささげさせてほしいと頼んだ。刀が肌に触れる中、私は祈るためにひざまずいた。将校はいらつき始めた。彼は私をベッドに投げつけ、私の服を引き裂いた。これほどの非人道的で暴力的なレイプは、言葉で表現できない」
その後3か月にわたり、女性たちは繰り返しレイプされた。自分の外見を醜く見せるために、オハーンさんは髪をそったこともあったが、相手の気をそぐ代わりに、余計にその気にさせてしまったようだった。
3か月後、軍高官が何度か視察に訪れた後、女性たちは荷物をまとめるよう指示された。捕虜収容所にいる家族の元へ返されたが、何が起こったかを口外すれば、家族もろとも殺すと脅された。「沈黙はあのとき、あの場所で始まった。私たちに無理やり押し付けられた沈黙が」とオハーンさんは振り返っている。
オハーンさんは、秘密を母親とカトリックの神父に打ち明けた。母親は打ちひしがれ、神父はやっと次のように答えた。「私の愛しい子よ、そのような状況ならば、修道女にならない方がいいと思う」
何十年経っても見る悪夢
終戦後、オハーンさんはトム・ラフさんと出会った。ビルマ(現ミャンマー)の戦いに参加した英国人兵士で、インドネシアを占領していた英国軍に属していた。2人は1946年に結婚して英国に住んだ後、1960年にオーストラリアへ移住。オハーンさんはそこで、カトリック系小学校の教師となった。オハーンさんは結婚前、戦時中に起こったことをラフさんに打ち明け、辛抱強くいてくれるよう頼んだ。数十年の時が過ぎても、オハーンさんは悪夢を見続けた。
夫婦は何年も子どもを授かろうとしたが、日本人の手によって被った臓器の損傷により、オハーンさんは幾度となく流産。だが、手術を受け、2人の娘を授かった。オハーンさんは50年にわたり、「恥というとてつもなく大きな負担」を負い続けた。「あまりにも恥ずかしかった。カウンセリングなどなく、私たちはまるで何事もなかったかのように生きることを期待されていた」
1992年、オハーンさんはついに口を開く決意をした。最初に娘たちに秘密を打ち明け、その後、日本弁護士連合会が主催した公聴会に出席するため、東京へ向かった。
その後20年間、オハーンさんは世界中を回り、戦時中のレイプに反対する活動や、完全な謝罪と補償を求めるすべての元「慰安婦」を支援する活動を行った。2007年には米首都ワシントンへ行き、2人の韓国人女性と共に、米連邦議会公聴会で証言した。
日本政府は1998年、オランダ人「慰安婦」に対する2億5500万円規模の補償事業を実施したが、オハーンさんは参加を拒否。被害者の口を封じようとする誠意のない試みだとして、非難した。
オハーンさんは2001年、オランダ政府からオレンジ・ナッソー勲章を、2002年にはオーストラリア勲章の「オフィサー」をそれぞれ受章した。
オハーンさんの夫であるラフさんは1995年に死亡しているが、娘2人は存命している。【翻訳編集】AFPBB News