拙ブログによくコメントを寄せてくださる「こきおばさん」様は
70代でブログを始め、
毎日のご家族との暮らしや体験を綴っていらっしゃる
80代の山梨県在住の女性です。
ご自身も幼少の頃、戦中・戦後を満州で過ごし、
塗炭の苦しみを舐めつつ帰国された方ですが、
長年お付き合いをされてきたご友人(田草川恒子様)が
地元の会で話された体験談を
ブログに収録されていらっしゃったので、
ご本人のご了承を得てここに紹介させていただきます。
私は中国に行く前の五年間、
大阪にある「近畿中国帰国者支援交流センター」というところで
中国から帰国された残留孤児・婦人やそのご家族に
日本語を教えていました。
それがきっかけで中国に行ってみようという気になったのです。
そして、私の両親は山東省からの引揚者です。
日本軍がさっさと日本に帰った後、翌年まで中国に残され、
苦労して天津から佐世保港に着いた後、
汽車に乗って延々本州を北上し、
空腹を抱えながら北海道を横断して故郷の斜里に辿り着きました。
斜里駅から二人の地元の村まで荷物を背負って二里ほど歩き、
へとへとに疲れているはずの母が、
自分の実家があと数百メートルという時、体が自然に走り出して、
父母やきょうだいが住む家の玄関で、万感の思いを込めて、
「ただいま」と言ったんですが、声が小さくて
家族は誰も気づいてくれなかったこと、
数分後、父が追い付いて
「ただいま~!」と大声で叫んだので、
みんなようやく気づいてワラワラと出てきたと
話してくれたことを思い出すと、今も泣けてきます。
ですので、この話は他人事とは思えません。
文中にもありますが敗戦後、日本政府は中国政府に対して
「民間人は日本に帰さず、中国に置いておいてくれ」と
頼んだそうです。
日本政府が国策として中国に送り込んだ自国の民を
戦争に負けたからと言って
置き去りにしたばかりか、そのまま見捨てようとしたことを、
日本国の庶民は決して、忘れてはならないと思います。
文章と写真は下の「こきおばさん」様のブログからお借りしました。
(文体を本人の語り方に変えさせていただきました。また、最後まで掲載できませんでしたので、ぜひ「いけだねっとNO2」ブログをご覧ください)。
「いけだねっとNO2」http://blog.livedoor.jp/leltugo123-yuki1234/
「父母の生きた時代と戦後の家族のくらし」
田草川恒子さん
父は1911年(明治44年)甲府に生まれました。大地主の家だったそうです。次男だったけれど家を継ぐことになったということです。甲府中学を卒業して逓信省(郵政省)に勤務していました。
1937年(昭和12年)に母と結婚。1940年(昭和15年)に姉が、1941年(昭和16年)に私が誕生しました。
1943年(昭和18年)父は満州国新京特別市(現・中国長春)の逓信省に勤めることになり渡満、続いて姉と私を連れて母と祖母も渡満しました。その年の12月に妹が誕生しました。祖母は妹の誕生の後、満鉄に勤めていた叔父の案内でハルピンや大連などを観光して帰国しました。
長春では行政府の官舎で、大変良い環境で暮らしていました。甲府の暮らしよりずっと豊かでしたが、その環境は現地の人たちから奪い取ったものだということは、戦後になって知りました。
1945年(昭和20年)5月、父に召集令状が来ました。そのころにはもう、兵隊が持つようなものは何もなく、国民服にシャベルを持って母だけに見送られて出発しました。
8月になると、関東軍の幹部と家族は続々と日本に帰っていきました。
8月9日のソ連の参戦も、8月15日の日本の敗戦も満州にいた人達にはよく解っていませんでした。
父はその年のうちにソ連軍の捕虜としてシベリヤ送りとなり、そしてその年の12月29日にシベリヤの収容所で死去しました。このことを母が知るのは、1947年(昭和22年)のことでした。
戦後満州に取り残された日本人は帰国することになりました。ずっと後で(何十年もたって)テレビで知ったのですが、満州や中国・朝鮮にいた日本人は返さないで現地においてくれと日本の政府が言ったそうです!中国はそんなことはできないと。連合軍に頼んで米国の船などで送り返されることになったということです。
終戦になり、日本人は帰国することになりましたが、母は3人の幼い子どもを連れては帰れませんでした。豊かな生活は一変し、何とか官舎には住んでいられましたが、食べ物もままなりませんでした。
次の年まで母は死に物狂いで働き、終いには近所の人と関東軍の倉庫に缶詰などの食料を何度も盗りに行きました。私たち子どもは見張り番でした。中国兵に捕まりそうになり止めました。どこで仕入れてきたか分からない小麦粉で饅頭を作って売ったり、清酒を水で薄めて売ったり、母は必死に働きました。ソ連兵の侵入があると少年の手引きで官舎の地下室を逃げ回り、女性は皆、髪を短く切り顔に墨を塗ったりしました。
そのまま1年過ぎたころ、かって父の部下だった現地の人が、3人も小さな子どもがいる母に「一人ぐらいお預かりしたい」と言ってきましたが、母は3人とも連れて帰ると預けませんでした。3人のうち姉はひ弱で妹は2歳でしたから、一番の候補は元気な私でした。母が連れ帰る決心をしていなかったら、残留孤児になっていたかも知れません。
1946年(昭和21年)ようやく帰国の途に就きました。母33歳・姉6歳・私5歳・妹2歳半でした。新京駅からの貨物列車(殆どが無蓋車)が、途中草原の真ん中で停車すると、現地の住民が襲ってきて、荷物を奪っていきます。列車から振り落とされた子どもはそのまま置き去り。列車から降りて収容所まで歩くのは大変でした。
ようやくコロ(葫蘆)島から船で出発しました。海に出ると母たちは与えられていた自決用の青酸カリを海に投げ捨てたということです。
真夏の船では、チフスや赤痢で死者がどんどん出て、布で簡単に包んでは海に投げ捨てました。佐世保港にようやく上陸したものの帰省地の申請で甲府は空襲で丸焼けだと言われ、仕方なく母の実家の勝沼に帰ることにし、8月末にやっとたどり着きました。それから7か月間勝沼に置いて貰いました。
(中略)
母はその後も遺族会や未亡人会・母子福祉会の役員を引き受け、活動していました。何十年かして遺族扶助料が出ることになりましたが、軍隊での地位によって金額が決まったことに母は腹を立てていました。東条英機をはじめとする幹部の遺族と、一兵卒だった父の遺族との違いは何とも大きなものでした。
それでも母は父の墓を守り通し、1995年に父の50回忌も済ませました。
母は大きな病気もせず、私たち姉妹を高校まで卒業させてくれました。着るものは制服までも手作りでした。3人の娘を結婚させ、孫5人・ひ孫8人も授かりました。2011年3月11日、東日本大震災の日、母は関東大震災の経験があったので大変驚いたということでした。姉夫婦と同居していた母は、前日まで元気にしていましたが、それから3か月後の6月11日、大雨の朝に苦しみもなく大往生しました。98歳の波乱万丈の人生でした。