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ヒーロー
一昨日位から、日本のメディアでも海外のメディアでも、ひんぱんに「ヒーロー」という言葉を見聞きするようになった。
一方で、例えば原発事故現場で作業をしておられる方は、「東電から元請けに話がきて、そこから1次、2次と下請けに要請があった。私も準備が整い次第向かう」という。海外メディアなどの注目については「残っている人がずっと放射線を浴びながら作業していると思われるかもしれないが、実際は法にのっとった管理で人を入れ替えながら作業を進めているので、英雄でも何でもないと思います」と冷静だ。」(毎日jp 21日のニュース)
「ヒーロー」の一般的な意味合いは、「普通の人を超える力・知識・技術を持ち、それらを用いて一般社会にとって有益とされる行為、いわゆる救世主としての行為を行う」人物(ウィキペディア)。
こういう時だ、われわれは超人的な能力を持つヒーローを待望し、歓迎する。
が、ここ数日、さまざまなメディアを見ているうちに、ヒーローというのは
「自分にはこの仕事に対して責任がある」と腹をくくって行動する人のこと
だと思い至った。
それは被災地や原発事故地で粛々と仕事している人たちだ。専門的技術や知識がある人、毎日毎日水を運んだり、炊き出しをしている人。また、被災者の受け入れをする人。
また、彼らヒーローは ”grown-up” 、つまり「大人」である。
何か大事が起こった場合、ただただ保身のために責任逃れをしようとし、他に責任をなすりつけ、何ら決断を下すことなく、仕事を回し、誰かがやってくれるのを待っているのは、年齢的には中年でも「子ども」である(わたしもそのひとりかもしれない)。
たぶん「子ども」には「大人になれよ」と言っても「いいよ、別に子どもでも。大人なんかになりたいとも思わないね。無事に任期さえ終えられれば!」と言うのだろう。
「大人」が多い共同体は住みやすい共同体だろうなあ。
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timeline of the fukushima nuclear accidents
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「買いだめ」の不思議
蓮舫消費者相が首都圏の買いだめを戒めるためにコンビニを視察したのは一昨日のことだったが、わたしが見るブログやツイッターなどでも、ほとんどのみなさんが例外なく「買いだめを止めましょう!」「買い占めは止めて!被災地に物資が届かなくなる!」と訴えておられる。
当然のことか、「○○町の○○スーパーはラーメン在庫が豊富。今すぐ走れ!」などという情報は見たことがない。
みなさん、ほんとうにいい人ばかりなのである。
それにもかかわらず首都圏だけでなく、関西地方のコンビニやスーパーの棚から生活物資が消えているとニュースやブログ記事になるのはなぜなのか。
1 ブログを書いたり、ツイッターでつぶやいている人はごく一部の良識ある人々で、その他の人は買いだめを行っている。
2 小売店で商品が消えているというのは買いだめが原因ではなく、流通の問題である。
3 「買いだめ」は「受験戦争」のようなものである。人々は「受験戦争はよくない」とリベラルに語る一方で、自分の子どもは戦争勝者にすべく高度かつ高価な対策を講じているのと同様、人々は「買いだめは止めましょう!」と右手でつぶやく一方で、左手には買い占めた袋を下げている。
うむ、わたしには分からない。
様子を見守りたい。
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幼稚園で教わったこと
娘が学校から戻ると、連絡帳に先生からのメッセージがあった。
今日、クラスで震災に関する写真や映像を見たり、話し合いをしたのだが、お嬢さんを傷つけてしまったようだ。配慮が足りなかったかもしれない。日本の復興を心から祈っている...云々。
娘がこの話し合いの中、一言も発言をせず、結局号泣したというのは、彼女が半分日本人だからだけではなく、たぶん母親であるわたしの行為のせいだ。
わたしはここのところ、ほとんどの日本人と同じようにネットやTVの前を離れられずにいる。
朝、起床と同時にネットでNHKとBBCをつけ、ニュースサイトやツイッターをチェックし、心配し、涙し、忸怩たる思いにかられているうちに一日が終わる。
毎日毎日何時間も被災地や原発事故の凄惨な映像を浴びるように見ていると、人間は自然と無力感や無常観に襲われる。おそらくわたしのそんな気分が彼女に伝染しているのだな。
亡くなった方々、被災された方々、住めなくなった街のことを考えて、気の毒でしょうがない、でも私には何もできない、と泣く娘に、わたしは言葉もない。
今、正義感に燃える娘が日本へ助けに行きたいと思っても、被災地に入ることは無理だ。
子どもは自分の身の回りのでできることをしなければならない。
具体的にはどういうことがあるだろうか。
幼稚園の時に教わった。
「自分のしていることを、その街の人みんなが真似をしたら、その街は前よりも住みやすい街になるでしょうか、住みにくい街になるでしょうか。
住みやすい街になるようなことを進んでしましょう。」
というのだ。
わたしが通った幼稚園はカトリックだったが、「神様が見ているから」とか「地獄に堕とされないように」とか、そういう「われわれより一段上にあってわれわれを裁く神」を指針にせず、人間の自律をうながす思想がすばらしいと思う。
例えばセルフサービスの店に入った時、自分の飲み食いした物をテーブルの上に置いたまま店を出てもいいよね、一回だけだし、今日は急いでいるし、誰かが片付けてくれるだろうし、と迷うとする。
でも、街のみんなが後片付けをせずに店を出るとしたらどうなるだろうか。
反対に、皆が余裕を持ち、片付けてから店を出るとしたらその店内の雰囲気、街の雰囲気はどうなるだろうか。
例えば困っている人がいるとする。助けるのは恥ずかしい。言葉が通じないみたいだ。でも、自分と同じように誰もその人を助けないとしたら?あるいは自分と同じようにみんながその人を助けるとしたら?
どちらがいい街になるか、考えるまでもない。
うん、いい教えだ。
もちろんわたしはこれらのことを自分自身のために言っている。
子どもに話すと、いつも自分が成長すべき点に気づかされる。
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人気ブログ
人気ブロガーさんってやっぱりすごい人たちですね!
多くの人がそのブログを訪れ、人気が出るのは、ただおもしろいからとか絵がうまいからなどという理由だけではなく、人間的な厚みや、信頼できそうな感じ、明るさ、そういう魅力が備わっているからなのだと確信しました。
それぞれの方が、それぞれのやり方でブログを更新されているのを見ると、お天気がいい日に太陽に当たっているような気分になります。
ありがとう!
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