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Brugge Style
世の中に 絶えてバレエの なかりせば
「世の中に 絶えてバレエの なかりせば もえの心は のどけからまし」
上手いこと言ったつもり。
シーズンも佳境、バレエの話題が無駄に多いが、わたしとてロンドンで見るバレエ公演をすべて絶賛しているわけではない。あまり書きたくないだけで。
今日はその話を書こうと思う。
あ、モダン・バレエについてあまり書かないのは別。モダン・バレエは大好きでも所感を文章にするのが恐ろしく難しく、なかなかここに載せられないのだ。
話を続けよう。
最近の残念なパフォーマンスを挙げると、先月ロイヤル・バレエで見た「ラ・バヤデール」の主役がいまひとつだった。
そういうのも目の肥になるので、わたしは歓迎ではある。
彼女は容姿も優れていて上手いダンサーではあるものの、傲慢な言い方が許されるなら今回の役においては「上手いだけ」だった。群舞の中にあって際立つようなところがなかったと思う。
全世界的なダンサー足り得るには、他の誰にもないその人だけの「灰汁」が足りないと感じたのだ。「灰汁」...「灰汁」よりもっといい名詞がないものか。「個性」よりももっとえぐい言葉が欲しい...「神の寵愛」? ピカソがピカソである「何か」のことだ。
現代も上演され続けているクラシック・バレエは時代の洗礼を受て来たものだ。昔から繰り返し上演され、今後も残るものも多いだろう。
「なぜわれわれは繰り返し同じお話や音楽を聴きたがるのか」と言うと、脳は音楽から得る期待と感動の刺激で快楽物質を分泌するそうで、ご丁寧に「十八番」や「山場」が来るのを期待する時に出るドーパミンと、「感動」そのものによって出るドーパミンの2種類があるらしい(出処は失念。たぶん楽器演奏者の脳を分析した記事だったと思う)。
だからゴッド・ファーザーのあの音楽を聴く時も、モーツアルトのアリアを聴く時も、「来たよ来たよ...来たー!」という感じで快楽物質Aに続いてBが出ているのだろう。それをイメージしただけでも気持ちよくなりませんか。
音楽のジャンル、受信者の特性、時代や文化背景によって快楽物質の分泌度にどんな差があるのか興味の湧くところではある。
また、この快楽物質が出るのは音楽の刺激によってだけなのか? 水戸黄門が印籠を出す場面や、忠臣蔵を毎年見たり、同じコメディを何回見てもゲラゲラ笑ってしまうのは別の理由なのだろうか。美人を見るだけでドーパミンが分泌されるそうだから、何かしら出てはいそうだ。
芸術やアートには1度見たり聴いたりしたらそれでたくさんなものと、何度も見たい、何度も聴きたい、何度も読みたいものがある。これはごく個人的な趣味...でいいと思う。
例えばわたしは、「ラ・バヤデール」を何十回も見ているが、「なぜ同じものを何回も見に行くの?」と言う人もいる。反対にわたしは夫がスタートレックを何十回も見るのが理解できない。しかし自分が理解できないものには「何かが不足している」「意味がない」などと大阪市長のような発言をするつもりは全然ない。今の自分には解らないが、何かがあるはずだ、という感覚は失いたくないと思っている。この感覚だけが自分の世界を知的に広げていく手がかりなのだから。だから大衆芸術は使い捨て、クラシックは何回でも楽しめる崇高な芸術などと分類するつもりもない...
話がだいぶズレてきたようだ。
それでわたしは何を楽しみに同じ作品を何度も繰り返し見たり聴いたりするのかと言うと、快楽物質のAとBの分泌もあると思うが、やはり演者の「灰汁」の数だけこの世の「真理」のようなものが何かしら明らかになってゆく、と感じるから。
解釈し、表現する人間の数だけ、世界のほんとうの姿、人間の何か真理のようなものが明かされて行くような気がするからだ。
これはわたしが芸術が尊い、と思う理由でもある。
(ここまで書いて自分は単によく分かっていないプラトニストじゃないのか、と気がついた)
だから、綺麗でも、平凡なパフォーマンスを見るとちょっとがっかりするのだ...
...
写真は記事とは無関係で、http://www.telegraph.co.uk から拝借した。
主役はいまひとつでもこの2幕目の群舞は素晴らしかったと思う。
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