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Brugge Style
私の非常識、あなたの常識
先日、ロンドンのバレエ公演でこんなことがあった。
劇場の照明が落ち、開演の合図。指揮者の登場と期待の喝采。オーケストラが鳴り響き、幕がしずしずと開く。目が覚めるほど明るい舞台の真ん中に美しい踊り手が...
わたしが座っていた座席の一角で事件は起こった。
袋を開けるバリバリいう音と、それに手を突っ込むガサガサいう音が遠慮なしに響き渡り、しかも止まなさそうだったのだ。
教師のような眼光鋭い女性が何人かじろっとそちらを見る。
わたしの真後ろだ。
しかしその音の主は全然かまわずに増々大きな音をたて、フランス語でささやき合ってはクスクス笑っている。すごい心臓の持ち主。いや、空気が読めないと言うべきか。
と、後ろの方から誰かが彼女等の方へやって来た。
注意するのだろうかとわたしは思ったが、どうも座席の入れ違いがあったらしく、その人たちはガタガタと席を入れ変わり始めたのである。
スーパーのビニール袋に食べ物の袋を仕舞う音、移動する音...
わたしも辛抱たまらず振り返った。若い女性2人と若いカップルがささやき合いながら動いていた。
とうとう英国人の女性が小声で鋭く声を上げた。
「いったい、何やってるの?!」と。
周りの観客は「行儀の悪い」人たちの立てる音を気にしながらも舞台にひき付けられているようで、周りには妙な雰囲気が漂い、しばらくして静かになった。
そしてインターバル。
と、すかさず劇場係員がやって来て、わたしの座席の前々列の人たちに向かって言った。
「この列に上演中ずっと携帯電話のスイッチを入れていた人がいたようです。後ろの席の人たちから画面の青い光が目障りだという苦情が複数ありました。上映中は携帯電話のスイッチを入れるのは禁止です!」
結構強い口調だった。
側にいた先ほどの「いったい、何をやってるの?!」の女性が、「上映中の携帯電話は禁止ですとアナウンスすべきよ。どこの劇場でもやってるわ」と係員に向かって言った。
係員は、「上演前に携帯電話、写真撮影は禁止、としっかりアナウンスしております」と相変わらず強い口調で答える。
女「ぜんぜん聞こえませんでしたよ。きっと誰も聞こえてないわ」
係「(何と言ったのか聞き取れず)」
女「でも常識のない人がいるのよ!」
彼女は「行儀の悪い人」達の方を見ながら、周囲にもはっきり聞こえるように言った。
常識。
文化背景や価値観の異なる人が集まる公共の場では、お互いが気持ちよく過ごせるよう、ある程度の配慮や空気を読む力が要求される。子供が小さい頃からこれを仕込むのは親の役目だとわたしは思った。マナーを仕込むと共に、瞬時に判断して適切な行動をとれる能力を仕込む...
わたしの真後ろで、先ほどのフランス語を話す若い女性2人と、席を入れ替わった若いカップルがおしゃべりを始めたのが否が応でも耳に入って来た。若いカップルはスペインから来た、と言った。
「英国は劇場で飲んだり食べたりしちゃいけないの? あのマダム、怖い(笑)」
「スペインじゃ上演中、観客は何をしてもいいのよ。おしゃべりしても大声で笑っても、食べたり飲んだりしても、立ち歩いたとしても」
「私たちがスイスでオペラに行ったときは、食べ物の持ち込みと携帯電話が禁止なことは多言語でスクリーンに注意書きとして出たわ。英国でもそうすればいいのに」
彼らもまた「自分たちは常識知らずではない」と周囲に知らせたいのか、私語らしくないトーンで会話していた。
いやいや。お嬢さん方、そんなことは劇場の「常識」。悪いけど、わたしもあの英国人女性と同意見...と思ったと同時にはっとした。
わたしが今ここでもし「いやお嬢さん方、劇場の常識がありますでしょう」と言うとする(言わないけど・笑)。でもそこで「フランスでは違うわ」とか「スペインじゃ、あなたが非常識」と言われたら返す言葉がない。かろうじて「ここは英国だから英国の『常識』を守りましょう」と言い返すしかない。そこへ「外国人観光客だから、英国の『常識』を知らない」と言われたら?
「常識」は集団が変われば変わる。「あなたの常識は私の非常識」、そういうものなのだ。
わたしは自身は「郷に行っては郷に従え」主義者である。強い信心もポリシーもないから、どこに行っても変わり身は早い(しかもその現場でのルールは遵守したい方だから、例えば「撮影禁止」の美術館でこっそり撮影している人を見かけたら殺意を覚えるほどだ・笑)。
英国や日本ではバレエ公演は静かに鑑賞するものだと思うし、周りにもそれを期待する。でもスペインで、野次を飛ばしたり大声で笑ったり弁当を食べながら見る人々の間に混ざったらぜひそれに習いたいと思う。あなたと私の常識は違うようだから、ではここで「常識」について合意点を探しましょうなどと議論を始めたら公演が終わってしまうではないか。
と言うか、そんな議論をいちいちしなくて済ませるための配慮が「常識」であるはずなのに。
おかしいなあ、常識ってこんなに根拠のない不確かなものだったのか??
ひょっとしたら「常識」には一神教的な神のような絶対性がないところがその巧妙なのかもしれない。
「あなたの常識は非常識だ」と指摘され、言葉を失った時点でさらにその先の言葉を探す努力は必要だと思う。特に多民族が共存する時に起こりがちな文化摩擦(あるいは常識摩擦?!)は、お互いがその先の言葉を探し(=つまりこれが本当のコミュニケーション)どこかで了解し合うしかないと思う。
でもたかだか2時間ほどの公演くらいはその場の流儀で見たいよ...うん。いや、どうしたらいいんだろう、やっぱりスクリーンに多言語で注意書き? 小学生相手じゃあるまいに...いや、ここは世界の都市ロンドン、この数十年で観光客は著しく多様化し、今後も多くの人がさまざまな集団からさまざまな価値観を持って集まる。
どうすればいいのだろう。
逆に考えると、多民族が行き交う世界の都市ロンドンで、普段は目立つほどの摩擦ももめ事も起きていないのは、ひょっとしたら驚くべきことなのかもしれない...そう、それこそが絶対性のない「常識の」巧妙なのか?
ジェントルマンは決して他人の無作法で怒ったりはしない人種なんですよね。彼らだったらどんな提案をするのだろうか。
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