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Brugge Style
神戸「常若」論。
長い間仮設だった阪急三宮駅の駅舎がついに建て替えらえることから、わたしたちが知っている神戸はとうとう完全に上書きされてしまった、という話を親友としていた。
三宮界隈が80年代頃までにはあった面影を失ってから久しい。
六甲、御影、岡本、芦屋、夙川界隈は、わたしたちの頃はまだ「細雪」の世界だった。
古い住宅地エリアを残してすっかり様変わりしてしまった神戸について、一通り嘆いてみせるのは、神戸っ子のあいさつ代わりなのである。
彼女は最後には
「変わらないのは海だけだね。海を見に行こうよ」
と言った。
流行歌の歌詞のようなセリフも、彼女がいうと文学的だ。
変わらないのは海だけ...
それで思いついたことがある。
神戸というのは、港町ということもあり、ひょっとしたら昔から常若の都なのではないか。
「常若」とは、例えば長い歴史を持つ伊勢神宮が、20年に一度の年式遷宮をし、それによって常に新しく、清く、強いエネルギーに溢れていることである。
年式遷宮からすぐに思い出すのはフレイザーの「王殺し」だ。
宇宙と自然の秩序をコントロールする祭司としての王は、老いて弱体化することが許されない。王自身の肉体の弱体化はすなわち、森羅万象に対するコントロール力が弱まるという意味で、即、共同体の崩壊につながるからだ。
だから王は常に若く常にパワーみなぎっていることが求められたのだった。
「常に変わらないものは常に変わっているもの」なのである。
で、話を神戸に戻すが、居留地のビルヂング群も、異人館も、切り開かれた山も、埋め立て地も、建てられた時は最先端だった。
今も、美しいかどうかは別として、古いものは取り壊され、再利用され、新しいものが日々創られ続けているのだろう。
新しいもん好き、モダン好きで、変化や異質なものに対してオープンであり、常に変りつつ変わらない神戸。
どんどん変わりながら神戸はずっと神戸であり続ける。
神戸常若論。
贔屓の引き倒し?
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