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Brugge Style
giacometti, pure presence
ジャコメッティ!
いやいやいや...
実は浅学にして、ジャコメッティにはほとんど関心がなかったのだ。
ナショナル・ポートレイト・ギャラリーで開催中のGiacometti Pure Presence「純粋なる存在」展(ジャコメッティの肖像画展)を見るまでは...
しかし、今日のわたしは断言する。
ジャコメッティ、好き!
この展覧会、今年見たどんな展覧会よりも「ああっ、そうだったのかっ!」と膝を打つ回数の多い内容だった。
一枚見るごとに、一部屋を見終わるごとに、自分の部分がどんどん刷新されていくのを実感した。
作品一つごとに膝を打っていたので全部見終わるのに4時間近くかかったくらいだ。
今まで想像もしなかったような、世界や対象へのアプローチ方法を示されたり、「今ここでわたしと展覧内容の間に何かが起こっている!」という緊張と裏切りを強いる展覧会こそが、わたしにとってはよい展覧会なのである。
さてジャコメッティの作品、と聞いてどの作品群をイメージするだろう。
わたしにとってはあの針金のように細い彫刻の立像作品だ。
ある理由で、あの溶岩のような表面を持つ細長い人間像にはずっと馴染みがあった。にもかかわらず(あったから、かな?)全然興味がなかった。現代芸術の極端な表現方法のひとつか、程度に思っていた。そんな自分の無知が恥ずかしい。
あの針金人間は、「対象を『知っている』ようにではなく、『見たまま』表現する」ジャコメッティの苦肉の策だったのだ。
パリの大通りで、ジャコメッティとさよならし、彼が去っていくのを見送る女性が、だんだん遠ざかり、だんだん周囲の中に溶け込んでいく様子を、彼は「知っている」ようにではなく「見たまま」再現したのだ。
この説明を受けて、わたしは針金人間の前に立ったまま、かなり長い間動けなかった。
これは今年一番の衝撃だった!
以下、言葉足らずを承知でこの衝撃を説明する。
人間は普通、ものを『知っているように』捉える。
フッサールの「間主観」ではないが、われわれは例えば家の正面を見るだけで、それは「家」である、と認識する。もしかしたらその家は書き割りの板切れかもしれないのに。
目の前の家が実際どういう状態であるかよりも、他我(家の側面や裏側を見ている想像上の自分)を総動員し、「知っているもの」をイメージする方を選ぶのだ。
パリの大通りで遠ざかっていく女性を「知っているように」描けば、ものすごく美しい女性を(ラファエル前派とかみたいに)ものすごくドラマティックに表現することも可能だろう。黄昏のパリ、街路樹や花、空気感、遠ざかる美しい顔、透けるスカートの裾...
しかし、ジャコメッティは「知っているように」制作するのを拒否した。
見たものを見たままに、その瞬間瞬間新しく立ち上がるセンセーションを表現したい...彼の欲望は、彼に「どうしても見たままを表現できない」とたびたび作り直しを強いたという。
なんと、見たものをありのままに表現しようとすればするほど、「われわれが『知っている』見たものありのままの姿」とはかけ離れていくのだ...
これがわたしにとってはものすごい衝撃だった。
自分があまり興味のない芸術家の展覧会を見ることがこんな豊かな経験になるなんて!
とにかく必見の展覧会です。
ちなみに展覧会タイトルの「純粋なる存在」はサルトルによるジャコメッティ評'give sensible expression to pure presence' から来ている。
かっこいい。
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