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2018年最後の「くるみ割り人形」







クリスマスは終わってしまったが、ロンドンのバレエ公演『くるみ割り人形』は来年まで続く。

昨夜(29日)わたしにとって今年最後のバレエ鑑賞に出かけた。

イングリッシュ・ナショナル・バレエの『くるみ割り人形』、クララとシュガー・プラム・フェアリー役はJurgita Dronina、パートナーが彼女を落としそうになり、着地が痛そうでお気の毒だったが、音楽性豊かで、触れるもの全てをキラキラしたクリスタル砂糖がけに変えてしまうようなたいへん美しいお菓子の国の女王様だった。


今シーズンはロイヤル・バレエもイングリッシュ・ナショナル・バレエも『くるみ割り人形』を上演し、わたしはそれぞれ2回づつ見たので、12月に入ってからの新聞レヴューをざっと読んでみた。

やはり、イングリッシュ・ナショナル・バレエの語り口は若い観客を混乱させる筋であると批評してあるのがいくつか(いや、それが主)あった。


わたしは古今東西の物語のもつ複雑さや、曖昧な部分、つじつまの合わない箇所は、決してシンプルに変えたり、白黒はっきさせたりせずにそのまま語られるべきだと思っている。
昔の話を現代の価値観に合わせたり、子供に分かりやすく噛み砕いて与えるべきでもないと思う。

筋に混乱させられてしまったり、理解できないというのは、それが自分の手持ちの知性や経験値を超えているからで、そういうものに出会った時が自分のレベルを上げるチャンスだからだ。
娘の通っていた女子校では「箱の外に出てみよ」としょっちゅう言われたが、それだ。
自分の「箱」の外に出てものごとを見て考え、また箱の中に戻って来た時には、その箱はもっと風通しが良くもっと汎用性度の高い箱に姿を変えているはずである。

子供は意外とヘンテコなところを気にせず想像力で補い、レベルを上げていくことができる。その時にそうできなければ、喉にひっかかったままの魚の小骨はそのままにしておく。いずれ成長とともに小骨は溶けて自分の大切な一部になるのである。

多種多様な解釈に開かれた作品こそが、子供の知性を活性し、感情と想像力を豊かにするのだと思う。


わたしは、イングリッシュ・ナショナル・バレエが批評に迎合したりせず、グレーゾーンを残したまま、今後も「分かりにくい」『くるみ割り人形』を語り続けてくれることを望んでいる。

すべてにはっきりした意味があり、伏線があり、つじつまが合い、分かりやすい敵に対する怒りと、紋切り型の悲しみ、安い愛と勇気と勧善懲悪...そんなすっきりした単純で浅い世界では子供はいつまでたっても箱の中から出られず、成長もしないと思う。

物語の効能のひとつは子供に成長を促す、ことにあるのだ。


(写真はENBから)
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