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venta belgarum




Venta Belgarum という街の名は、「ベルガエ族のマーケット」という意味だそうだ。

「ベルガエ族」とは、現在の「ベルギー王国」の名称の元にもなったガリアの部族名で、彼らはだいたい現在のベルギー王国の辺りに居住していた。
ユリウス・カエサルは「ガリア戦記」の中でガリア地域をベルガエ、アクィタニア、ケルトの3つの部分に分けて語っている。ここがウイーン体制下の1830年に独立を宣言し国家としての体裁を整えた時に、カエサルの評する「ガリアのうち最も勇猛な部族」の名前をもらって「ベルギー」と名のった...というわけだ。


この勇猛で知られたベルガエ族の都市として、鉄器時代の土塁の上に成立したのが ベンタ・ベルガルム、「ベルガエ族のマーケット」だ。ベルガエ族は紀元前100年頃からベンタ・ベルガルムを含む周辺の大部分を征服していたのだった。

ベンタ・ベルガルムは多くのローマ植民都市と同じく4世紀には廃れ始め、ついでアングロサクソンが侵入し、7世紀ごろにはアングロサクソンの七王国のうちのひとつの王国の首都となり、9世紀まで栄えることとなる。そして11世紀始めにはノルマンによる征服が...

さて、「ベンタ・ベルガルム」とはいったいどこにあるのでしょう?



正解は英国南部のウインチェスターだ。
(地図をこちらでご覧下さい)

先日、娘の用事でウィンチェスターに出かけ、時間つぶしに街をブラブラしていたら、興味深い歴史のトリビアあれこれににぶつかった。

そのうちのひとつが、ウィンチェスターはベルガエ族の都市であったという事実で、わがベルギー人の夫が「どうりでウィンチェスターでは家にいるような気分になるわけだ」としょうもないことを言って喜んでいたという。

この辺りの地域(ベルギーから英国南部にかけて大雑把に)には、ライン川を渡ってきたゲルマン系、アングロサクソンは北ドイツからデンマークの地を起源としたゲルマン系、ノルマンはスカンジナビア系(同じくゲルマン系)だがすでに9世紀からフランスに住み着いていた人々であり、もちろん土着の人々との交流もあり、もう渾然一体に溶け合っていて何系何人(なにじん)という区別はナンセンスだ。

が、夫が自分の遠い先祖はドイツの彼方から現れ、ベルギーに住み着き、一時は領土を拡大してドーバーを渡り、英国南部まで来ていたんだなあ、と思いを馳せたくなる気持ちは散文的だがロマンティックで、わたしにも理解できる。


ローマ帝国とキリスト教というとてつもない勢力に上書きされてしまった文化のことをもっと知りたくなった。


(写真はウィンチェスター大聖堂。高さはないが、欧州で一番長い身廊を持つ)
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聖金曜日




聖週間(復活祭)の期間にスペイン旅行をしたのは単に偶然だったが、聖木曜日をマドリッド、聖金曜日と復活祭をトレドで迎えたのは、この旅のハイライトになった。
ご存知のようにスパニッシュ文化圏はカトリック信仰心が厚く、宗教行事も盛んなのだ。


わたしは幼稚園に入る前から日曜学校に通わされ、以後キリスト教系の教育を受けてきた。
両親は信者ではないものの、キリスト教関係者と親交が深く、よりよい教育を子に授けられるという理由で3人娘を全員それ系の学校へやったらしい。ちなみに3人娘も信者ではない。
血は争えないとはこのことか、わたしは自分自身の娘も幼稚園からずっとキリスト教系の学校にやっていて、かなり満足している。西欧文明の教養はキリスト教と切り離すことができないというのが理由のひとつだ。

このように非常に手前勝手な関わり方しかしてこなかったキリスト教だが、今回、信仰心厚きカトリックの地で見た聖週間のパジェント(宗教行列)は、心貧しき者を感動で震え上がらせたのである。


南方のカトリックはより視覚的だ。
ビーフジャーキーのような身体で、額からダラダラ血を流し苦悩に顔を歪めるイエス・キリスト像や、女皇帝のように豪華壮麗な衣装をまとい、蛾眉をゆがめて真珠の涙をこぼす美女マリア像がデフォルトだ。また、トレドで三位一体の神が偶像化されているのを見たときはあごがはずれそうになった。

さらに聖壇は黄金と七色の天国そのもの。聖週間中の祭壇はビロード、刺繍、レース、生け花、彫刻、何百本のろうそくの光で飾られ燦然と輝き、わたしはそんな鮮やかでフィジカルな「信仰」にもショックを受けていたのだ。
そうですな、映画「インドへの道」で主人公が受けたのと同種のショック。

わたしには、ミニマムな空間で祈る北方プロテスタントには不可欠な想像力が大きく欠けているのかもしれない。


首都マドリッドの太陽の門付近で、聖木曜日のパジェントに遭遇したときは、まだお祭り見学の気分だった。
音楽隊の奏でる楽の物悲しさ、夜空に漂う乳香の芳しさ。人々に担がれ左右に揺れながら2歩進んで1歩下がるかのようなリズムで進む、神の子と聖母の山車。スペイン語の響き、涙する老女、マドリッド近郊から出て来たのであろう信者の波波波...遭遇できてなんとラッキー! というのが感想だった。

翌日、トレドで迎えた聖金曜日は、見当をつけておいた小さな教会で磔刑のイエス・キリストが山車でお出ましになる瞬間を狙った。


こっそり告白するが、娘が英国国教会の学校に通っているため、行事にはしょっちゅう出席させられる。それらは常にあくびをかみ殺すような退屈で空々しいイベントで、できたらわたしは欠席したい。

なぜかくも空々しく退屈か...
その理由は、真善美を語るどの神父様からも全然伝わってこないからだ。「自分にないものは他人には伝わらない」と言うが、彼らから伝わって来ないのは、自分の中にはない、どこか別の場所にある正義や美を一所懸命伝えようとしているからだと思っている。また、聞き手のわたしも冷笑的で、善や美を今ここで実践していないという原因もある。


一方、スペインの儀式は、ほんらいの宗教が持つ、生活臭のする、土着的で、小コミュニティ的で、あなたとわたしの間にあるものだった。
ロンドン南部の英国人に較べてトレドのスペイン人がより真善美を具現化していると言いたいのではない。教会からついに山車が、赤衣の担ぎ手によって運び出されたときは感動で泣き出しそうになった...そういう心の深いところに突き刺さる、言語外にあるとても素朴な何かを感じた。
新聞社の人にカメラを向けられていなかったら泣いていただろう。

大層な言葉やセリフはひとつもなかったが、人間の心に染み入るパジェントであった。

この「宗教的」な体験は決して忘れないだろうと思う。
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解脱「風」のワードローブ




友が日本から持ってきてくれたもののうちのひとつ、YOKO CHANの盛夏もの(ほんっとにどうでもいい写真ですね...でも包装が日本的にすごく綺麗だったの)。

日本の方には今更という感じだと思うが、シンプルで伶俐でしかも女っぽいコレクション。「とにかく便利!」とすすめる妹に連れられ、年末に神戸のバーニーズ・ニューヨークに見に行き、なるほど便利そうであると試しに買ってみたのが始まりだ。


実はわたしは日本製の洋服があまり合わない。
身体を横に(例えばCTで)スライスするとまん丸丸太のような体躯をしているからだ。正面から見ると細く(?)、横から見るととても分厚い。しかもそれでスタイルがいいわけではないので、日本女性の柳の葉のようなほっそり優雅な体型に合わせてパターンを取った服がどうしても合わないのだ。具体的に言うと、胸の上方に妙な横皺が入るのが典型的な問題。
同じ悩みを抱えている方おられませんか。

バブルの時に「日本の服は平置きにしてパターンを取り、イタリアの服はトルソーに布を当てて裁断する」というハナシを専門家から聞いたことがある。日本の服とて通り一遍どこの誰でも同じ作り方をしているわけではないだろうし、かれこれ30年前のことだから、こういう話は半分に聞いた方がいいのは承知の上だ。が、80年代、「イタもの」ともてはやされたイタリア製の服が妙に身体に合ったのは...まあバブルで頭が相当湧いていたんでしょうけど...時代的にもうれしいことだった。


バーニーズの売り場でヨーコ・チャンの服を見たときは「大丸の店員さんみたいな服...」だと思った。神戸大丸の店員さんは控えめな黒っぽい服をお召しなのだ。
しかし試着してみたら、吊るされている時よりもずっと魅力的になる。
しかも欧州で買う服のように前下がり(肩の頂点から脇下の長さ)が長過ぎるいうことが決してない。ヨーコ・チャンの服で気に入ったのはそのことと、値段、それから欧州で着ている人はまずいない! ということだった。これ重要。わたしがヴィクトリア・ベッカムを着ている時にご本人に遭遇するのを恐れていることは前にも書いた(笑)。

逆にわたしは日本でヨーコ・チャンを着る勇気はないな...わたしよりも千倍かわいらしい人が何人もお召しだろうから!


ヴィクトリアの服のようにクロゼットにかかっているのを見ているだけでワクワクさせてくれる服というわけではないものの、「これさえあれば生きて行ける」というヨーコ・チャンのブランド・コンセプトは本当にその通りだと思う。とにかく便利。

わたしも煩悩をぬぐい去り、ここのワンピースとスカート、シャツとセーターとトレンチコートだけで揃えた伶俐な解脱「風」ワードローブが欲しいなあ...と煩悩丸出しで言ってみる。

笑。
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思い出をつめ合わせて








平日のブルージュはあまりにも閑散としていた。

復活祭の休暇が終わり、人々が日常生活に戻って行ったせいか、マルクト広場のテラス席はガラガラ、商店街も人がまばらだった。

天気はものすごくいいのに風が強く、肌寒いブルージュの平日。
街の気が弱ったような物悲しさがただよう。

そうか、やっぱりブルージュの活気というのは観光客の活気だったのか...
街の活気を観光客任せにしておくのは心もとないなあ。


ブルージュを初めて訪れる友は「きっれー」とつぶやきながら写真を撮りまくっている。彼女がブルージュを誉めるたびにわたしの気持ちに明るい光が差す。
「美」というものはなぜこのように「滅び」の陰と常に隣り合わせなのだろう。


ブルージュ価格帯の中では高級に属する種のホテルやレストランが閉店したり、経営状態が変わったりしたのが目立ち、個人経営の店がいっそう減りしているのが一ヶ月前に帰省した時も気になった...

もしもこれからさらに一部レストランや土産物等の値段がどんどん下がり、一方では商店街等の土地の値段がどんどん上がり、街にチェーン店だけが残るようなことになったら、おそらくブルージュの運河は再び土砂で埋まり、死都と化すだろう。
ブルージュは西フランダースの州都で、週末には周辺の街から買い物客が集まるので、いずれはそういう機能だけを果たす街になるかもしれない。

もしかしたらその時はこの角を曲がったところまで来ているのではないか。


やがて週末が訪れると、金曜日の夜辺りからまず元Kホテル(Kホテルは昨年チェーンから離れた)のロビーがチェックインを待つ人々で賑わい始め、翌日の土曜日は朝も早くから運河沿いの道はカメラを構える人でごったがえすようになった。

ほっとしていいのかいけないのか...


わたしが個人的にこの街をどうにかできるわけではないのだが(選挙権すら持っていない)、彼女(ブルージュのことね)を放ったらかしにして去るのが忍びない気持ちでいっぱいになった。
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フリッツ・マヨネーズ・サバイバル








ゴールデンウィークを利用して友達が遊びに来てくれ
専業主婦のわたしにはあまり関係ないが、英国も3連休だったおかげで
思いつきで弾丸ブルージュ観光へ。


これは絶対に食べなあかんでと
フリッツをマルクト広場で立ち食いしていると
日本の観光客の方に
「あの人...バーキン持ってポテト食べてる...」
となぜか言われるの巻。


だってフリッツ食べたらめっちゃ喉かわくし、手ぇも汚れるねん! 
かばんにペットボトル半リットルの水と、
指をふくタオルが入ってるねん!

わたし日本語分かるねん!



友達と訪れるブルージュ最高。

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