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Brugge Style
聖金曜日
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/14/008f762e4d286a600ed24f38d31274af.jpg)
ご存知のようにスパニッシュ文化圏はカトリック信仰心が厚く、宗教行事も盛んなのだ。
わたしは幼稚園に入る前から日曜学校に通わされ、以後キリスト教系の教育を受けてきた。
両親は信者ではないものの、キリスト教関係者と親交が深く、よりよい教育を子に授けられるという理由で3人娘を全員それ系の学校へやったらしい。ちなみに3人娘も信者ではない。
血は争えないとはこのことか、わたしは自分自身の娘も幼稚園からずっとキリスト教系の学校にやっていて、かなり満足している。西欧文明の教養はキリスト教と切り離すことができないというのが理由のひとつだ。
このように非常に手前勝手な関わり方しかしてこなかったキリスト教だが、今回、信仰心厚きカトリックの地で見た聖週間のパジェント(宗教行列)は、心貧しき者を感動で震え上がらせたのである。
南方のカトリックはより視覚的だ。
ビーフジャーキーのような身体で、額からダラダラ血を流し苦悩に顔を歪めるイエス・キリスト像や、女皇帝のように豪華壮麗な衣装をまとい、蛾眉をゆがめて真珠の涙をこぼす美女マリア像がデフォルトだ。また、トレドで三位一体の神が偶像化されているのを見たときはあごがはずれそうになった。
さらに聖壇は黄金と七色の天国そのもの。聖週間中の祭壇はビロード、刺繍、レース、生け花、彫刻、何百本のろうそくの光で飾られ燦然と輝き、わたしはそんな鮮やかでフィジカルな「信仰」にもショックを受けていたのだ。
そうですな、映画「インドへの道」で主人公が受けたのと同種のショック。
わたしには、ミニマムな空間で祈る北方プロテスタントには不可欠な想像力が大きく欠けているのかもしれない。
首都マドリッドの太陽の門付近で、聖木曜日のパジェントに遭遇したときは、まだお祭り見学の気分だった。
音楽隊の奏でる楽の物悲しさ、夜空に漂う乳香の芳しさ。人々に担がれ左右に揺れながら2歩進んで1歩下がるかのようなリズムで進む、神の子と聖母の山車。スペイン語の響き、涙する老女、マドリッド近郊から出て来たのであろう信者の波波波...遭遇できてなんとラッキー! というのが感想だった。
翌日、トレドで迎えた聖金曜日は、見当をつけておいた小さな教会で磔刑のイエス・キリストが山車でお出ましになる瞬間を狙った。
こっそり告白するが、娘が英国国教会の学校に通っているため、行事にはしょっちゅう出席させられる。それらは常にあくびをかみ殺すような退屈で空々しいイベントで、できたらわたしは欠席したい。
なぜかくも空々しく退屈か...
その理由は、真善美を語るどの神父様からも全然伝わってこないからだ。「自分にないものは他人には伝わらない」と言うが、彼らから伝わって来ないのは、自分の中にはない、どこか別の場所にある正義や美を一所懸命伝えようとしているからだと思っている。また、聞き手のわたしも冷笑的で、善や美を今ここで実践していないという原因もある。
一方、スペインの儀式は、ほんらいの宗教が持つ、生活臭のする、土着的で、小コミュニティ的で、あなたとわたしの間にあるものだった。
ロンドン南部の英国人に較べてトレドのスペイン人がより真善美を具現化していると言いたいのではない。教会からついに山車が、赤衣の担ぎ手によって運び出されたときは感動で泣き出しそうになった...そういう心の深いところに突き刺さる、言語外にあるとても素朴な何かを感じた。
新聞社の人にカメラを向けられていなかったら泣いていただろう。
大層な言葉やセリフはひとつもなかったが、人間の心に染み入るパジェントであった。
この「宗教的」な体験は決して忘れないだろうと思う。
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