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Brugge Style
rose charlotte perriand
この素朴でありながら洗練されている、不可侵なようでいて気取りがない、得も言えぬ姿の薔薇、Rose Charlotte Perriandという名がついているそうだ。
日本の薔薇作家、國枝啓司さんが栽培された品種。
わたしもヴァレンタインの日に知った。
先々週のパリ滞在の目的の一つが、20世紀がまるごと彼女の世紀だった(1903年に誕生し1999年に没している)シャーロット・ペリアンの特別展をルイ・ヴィトン財団で見ることだった。
今年は建築家でデザイナーであった彼女の没後20年なのだ。
この展覧会を見学後、夫がネットでたまたまこの薔薇を見つけ、ヴァレンタインに妻に贈ろうとしたらしいが、英国では間に合うように手に入らなかった...と教えてくれたのだ。
かわりに王道の深いボルドー色の薔薇をもらった。
うん、シャルロット・ペリアンは大輪のボルドー色の薔薇ではない。たしかに上の写真のような最高に柔らかく肌に優しいのに、丈夫で長持ちする、知的で自然なカシミアのセーターのような...
相反する性質を備えているのは、何かが強烈に魅力的であることの理由だ。
シャルロット・ペリアンの名前をご存知のない方でも、ル・コルビュジエに見出されて彼と共動した方、と聞けばなんとなくイメージがわくのではないか。
ル・コルビュジエの名前を冠した家具で有名なもの、例えばLCシリーズやChaise Longueなどは、彼女のアイデアである。


今回の大回顧展は、ペリアンの作品と、彼女が影響を受けたり、交友関係のあった人物(ピカソ、ブラック、前川國男、坂倉準三、河井寛次郎、柳宗理、ピエール・ジャンヌレ、フェルナン・レジェ、ジャン・プルーヴェら)の作品や、彼女が汲めども尽きぬインスピレーションを受けた自然環境、あるいは彼女が好きだったライフスタイル(週末、山小屋に行って自然の中に身を置き、月曜の朝戻ってくるというような)、招待され何度も訪れた日本でのいい意味でのカルチャーショックが、何層にも色や質の重なった織物のように組み合わされた、名前通りの「大」回顧展だった。
時代を愛し、時代に愛された人(少なくとも仕事上は)という、時代を生き抜いた感じが大変清々しい天晴れな人である。
世界は実在する「もの」ではなく、互いに結びついた複数のできごとによって構成されている。
われわれ人間は、この世界を反映する複雑な過程なのだ。
世界や人間というのは動的な「関係性」の組み合わせである、ということが可視化されるような彼女と、彼女に捧げられた大展覧会だった。
mousse au thé matcha
ヴァレンタインの夜はロンドンに食事に行くつもりだったのだが、超多忙が続いたせいか、丈夫なのが取り柄の夫が風邪をひいてしまい、娘のリクエストで家で春巻きを作った。
クラシックなのと、海老と青しそ(S&Bのチューブ入り。重宝)の二種類。
娘もやや風邪気味で、家で寝たいとヴァレンタインなのにもかかわらず彼氏を大学街に残して帰省しているのである。
わたし? わたしはバカだから風邪ひかないの...
普段とはちょっと違うデザート(普段は焼きっぱなしのチーズケーキとか、ガトーショコラが多い)を用意し忘れ、急ぎ抹茶のムースと米粉のビスキュイを焼いて、金粉を飾り、夫のために特別に用意しました! という雰囲気を醸し出す。
金粉大好き(笑)。半年前の夏の金沢でもっと買ってくればよかった! 金沢、また行きたい。今度は能登半島をドライブしたい。
友達にもらったすごくいい抹茶を使ったムース、ほんとうにおいしい。
なにより高揚するのは、来月、一時帰国するので和食材を惜しみなく使えることだ。
普段は和食材をケチケチしながら使い、特に貴重なものは大切にしすぎてうっかり賞味期限を過ぎてしまうことも...和食材の賞味期限を気にしなくなり、自分の判断に頼って積極的に食べるようになるのも海外在住にはよくあることだが。
和食材を惜しみなく使えるこの気持ち、解放されたような気持ち、何に例えたらいいだろう、ほんとうにいい気分になるのです。
抹茶をふりかけたビスキュイがまるで青のり!
愛の寓意
聖ヴァレンタインの日。
愛の日にさえ長々と書かずにいられないのは野暮の極み...自覚している。
さて。
最初、ロンドンのナショナル・ギャラリー蔵、ブロンズィーノ『愛のアレゴリー(寓意)』1540−1545頃(写真上)のことを考えていた。
こちら、盛期ルネサンスとバロックの間にはさまれた「マニエリスム」がいっぺんに理解できるような作品である。
盛期ルネサンスは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジャロ、ラファエロをもって古典様式が完成されたと考えられ、当然その後は完成された様式を模倣する時期が続いたが、人間の感覚は麻痺してくるのか、さらなる刺激を必要とするのか、完璧な「美」も次第に誇張され、過剰になる。
人間の感性というのはそうできているのだろう、わたしたちはそういう類のものをいくらでも世間に見つけられる。
キャンプ(様式)もそうなのかな...わたしは大好きだけど。
下手クソな説明をするのはこの辺りでやめておこう。
ブロンズィーノの『愛の寓意』は、マニエリスムの美意識と技巧と教養遊びを極めたような作品である。
この絵の中心人物である二人、ヴィーナスとキューピッド(ヴィーナスの息子)は一見して冷艶清美、同時に言いようのない違和感をも醸し出している。
次に彼らの背景に目を移すと、学者の間でもいまだに決定的な解釈が定着していない、謎に満ちた人物やものが配置されているのに気づく。
解釈が定着していないため、以下はわたしの単なる想像だ。
わたしが最近ナショナル・ギャラリーでこの絵を見て(なにしろ入場無料なのでモエは入り浸りなのである)思ったのは、フィレンツェのウフィツィ美術館蔵、ボッティチェルリ『ヴィーナスの誕生』(写真下)だった。
ヴィーナスの誕生はこうだ(ヴィーナスとアフロディテは同じ女神のことです)。
ウラノス(天の神)がガイア(大地の神)を覆う。
と、ウラノスの息子クロノス(時の神)が父親の陰部を切り取り、それは海に落ちた。
その一部が泡となり、ヴィーナスが誕生し、キプロス島に流れ着く。
この絵では、中央に描かれた美しきヴィーナスが、今、島に降り立とうとしている。
ヴィーナスの右手側で薔薇色の衣を広げ、着せかけようとしているのは「時」のニンフ、ホーラだ。
「彼女の差し出す衣裳を身にまとうことは、「天の娘」であったヴィーナスが、時間の支配する世界、すなわち地上の世界に入り込むことを示す。天上のヴィーナスは、今まさに現実の世界に文字通り「上陸」しようとしているのである。」(高階秀爾『ルネサンスの光と闇・下』)
このボッティチェルリ の傑作『ヴィーナスの誕生』は、天上のヴィーナスが地上にくだり、地上のヴィーナスとなってこの世に美と愛と快楽をもたらす活動を始めんとする場面を描いているのである。
「「アフロディテ・ウラニア」(天上のアフロディテ)と「アフロディテ・パンデモス」(地上のアフロディテ)とは、精神的なものと肉体的なもの、ないしは理想的なものと現実的なものという「愛」のふたつの面を象徴する女神のこと」(同上)
「実際はアフロディテは二柱」(同上)
ヴィーナスは、美の持っている、多様なものや相矛盾するものの統一と調和という本質を現しているのだ。
こうしたヴィーナスの二柱性を描いた絵画は枚挙にいとまがない(例えばティッツイアーノ『聖愛と俗愛』1514 ボルゲーゼ美術館蔵)。
再び話を『愛の寓意』に戻す。
一般的に、『愛の寓意』の右上の男性は時の翁で、青い布を開けて真実を「暴こう」としているということだが、もしかしたら「着せかけよう」としているとは考えられないのか? 『ヴィーナスの誕生』で、時のニンフ・ホーラが、ヴィーナスに衣を着せて、天上のヴィーナスを地上のヴィーナスとして迎え入れようとしているように。
矛盾している背景(右の可愛い顔をしながら獣の体を持つ少女とか)は、これからヴィーナスが調和を与える混沌とした世界の象徴。
つまりこのシーンは、「アフロディテ・ウラニア」(天上のアフロディテ)が、時間の衣を着せかけられることによって、地上の混沌に調和を与えんとする「アフロディテ・パンデモス」(地上のアフロディテ)に変身しているシーン...ということになる。
というのがモエの解釈、まあ学者さんが聞いたら笑うであろう与太話であるが。
そう考えたらば、右手の薔薇の花を投げつけようとしている子供は、春を運んでくる西風ゼフュロスのような役割を持っている(足に刺さった棘は説明できないけど...)。
母親である愛と美の女神に口づけするキューピッドは目隠しをされていないので、理性的判断のできるキューピッドである。が、彼もまた「「目の見える」より高い精神的存在へ自己を高めなければならないのだ。
そして精神的存在へと己を高めることこそが、「愛」そのものの至高目的にほかならない。
louisa miller
イングリッシュ・ナショナル・オペラ、ヴェルディの『ルイザ・ミラー』を。
実はわたし、こちらの作品を鑑賞するのは初めてで(ロンドンで上演されるのも17年ぶりだとか)、話の筋には『ジゼル』と『ロメオとジュリエット』と『リゴレット』を足した感じ? という印象を持った...
あるまじき雑さ...
つまり物語の筋としては、身分違いの恋と嫉妬、親と子のしがらみで、みなが不幸になる「よくあるメロドラマ」ではある。
が、そこはヴェルディ、甘く切なくどこまでも美しい旋律、これぞオペラ。
それにふさわしい悲劇の若きカップルの声がすごかった。
どこでこんなタレント見出してきたの...ルドルフォ役はテナーのDavid Junghoon Kim(ロイヤル・オペラの新人発掘プログラムRoyal Opera Jette Parker Young Artistの出身)、演技力はこれからついてくるのかなと思ったが、まるで樽のような内部を持つ楽器を思わせる声の持ち主。
ルイザ役のソプラノElizabeth Llewellynの美声、コロラトゥーラには特にゾクゾクさせられた。あんな声、どこから出すのか。
なんだか頭の悪い感想で失礼します。
舞台は現代(Regietheater、つまりオリジナルそのままではなく監督の「私家版」といった意味)の、とても抽象的な村で、すべて白と黒のスタイリッシュでシンプルな作り。
しかもルイザとルドルフォの「ピュアな精神」が、彼らが子供だった頃の姿になって舞台に現れ、狂言回し風の役割を演じる。
同時に舞台に設置された真っ白な壁が墨色でどんどん汚されていくのは、彼らの猜疑心の高まりと、周囲の悪巧みに汚される関係を表しているのだろうか。
また、ルドルフォの父親伯爵の悪行が抽象的な方法で表現されているだけだとわたしは思ったシーンも、観客がそれぞれ深い意味をそこに見出そうとしていて、他人の解釈や感想を聞くのはおもしろいと思った。
王道の演出を一度も見たことがないので、これは一回見てみたい。
疾患しないために、美しいものを聞き、美しいものを見て、おいしいものを食べ、面白い話にゲラゲラ笑い、よく寝る生活に邁進中。
(カーテンコールの写真撮影は奨励されています)
ハリケーンとウイルスとブレクジットのロンドンから
欧州に住まう方が書かれたニュース記事の中に、
街で「(新型コロナウィルス感染で)咳が止まらないのですが、どうすればいいですかね」と、嫌がらせで質問してきた人がいて、「私は日本人ですけど」と答えたら気まずそうに去って行った...
というくだりがあったそうである。
わたしは読んでいないのだが、これまた欧州住みのわたしの友達が読み、「もし自分がこんな嫌がらせを言われたら、どう答えたらいいのー?」と。
そりゃ、「バカにつける薬はないそうですね。お気の毒です。」と教えてあげたら感謝されるんじゃない、と言ったら彼女は涙を流しながら笑っていた。
フランス語のハッシュタグ#JeNeSuisPasUnVirus(私はウィルスではない)がツイッターのトレンドになったように、もしわたし自身が「ウィルス」呼ばわりされたり、ヘイトスピーチ的罵声を浴びたら...
「無知は感染力が強いみたいですね!」と言いかえしてやろうとか、ゲホゲホしながら追いかけ回してやるとか、実際に差別被害を受けておられるアジア人の方の気持ちを想像してはそんなイメージトレーニングをして溜飲を下げている。
幸いロンドンでは今のところそんな目には合っていない。
ロンドンはさまざまな人種のるつぼなので、差別も当然あるだろうが、差別を許さないという意識もまた大変強いのである。
パリも普通そうなのに...
それなのに当地で人種差別が時に激しく噴出するらしいのはなぜなのだろう。
社会の破綻を回復しようとする動きが起こるたびに、供犠(<共同体血色のために生贄を捧げること)が要請される。
人間は例えば社会の急激な変化や、未知のウィルスなどへの恐怖、つまり具体性のない敵と戦うことはできない。敵は名前があり、具体的な形を持っていなければ戦えない(その後きっちり排除するためにも)。
今あちこちで報告されている人種差別的攻撃、ヘイトスピーチを見ていると、人種的、政治的対立、経済格差、社会矛盾や不満、恐怖、これらの複雑な問題を単純に「ウィルスを広げる中国人」に収斂させているような感じがする。
これがEU問題になるとターゲットは「自分たちだけ得をしているグローバリスト」や「移民」「マイノリティ」になる。
社会は常に「自分だけが大損をしている。本来は受けられるだけの権益を受けられていないのはあいつらのせいだ。あいつらさえいなくなれば秩序は戻る」という不満でパンパンなのだ。
差別意識というのは誰もが持ちうる意識だ。
だからこそ、自分自身がまず強く戒めるべきだと思っている。
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