ケコウ誌の新号を1日に入手した。
じっくり読んでそのことに触れようと思ってたが、このブログをリニューアルしていきなり風邪で寝込んでしまった。
殊勝なことはするもんじゃないね。
「巻頭言」と「聖教のこころ」はじっくり拝読したが、ほかはまだ流し読み程度。
なので、内容についてはあらためて書くこととして、今回はこの冊子の紹介。
華光会は発刊している信仰雑誌であり、伝道の基盤をなすもの。
誌上法話と信仰体験発表という二本柱があり、片や講師先生の練りに練った「お取次ぎ」、片や自らの体験を自らの言葉でつづる「生の声」
法の言葉と、機の言葉が並んでいるところにその凄さがあるんじゃないだろうか。
一方的な法語の押し付けだけでもなく、独りよがりの自讃でもない。
ただ、この本に書かれていることを記憶したり体験をなぞったりするためではない。それらを鏡として、「我が信」を問うていく、そこが大事。
といいつつ、私がまず読むのは「巻頭言」
これが良い。
いろんな人が、自分の言葉で法のことを語る。
よくよく読んでみると、筆者が変わっても同じことを言っているようだ。
逆に、同じことなのに筆者によって”味”は変わっている。
手軽な冊子なので、いつでも手に取ることが出来るし、どこから手をつけることも出来る。
それに、こちらが忘れている頃に手元に届き、引き戻してもらえる。
これほどのお手回しはないんじゃないだろうか。
じっくり読んでそのことに触れようと思ってたが、このブログをリニューアルしていきなり風邪で寝込んでしまった。
殊勝なことはするもんじゃないね。
「巻頭言」と「聖教のこころ」はじっくり拝読したが、ほかはまだ流し読み程度。
なので、内容についてはあらためて書くこととして、今回はこの冊子の紹介。
華光会は発刊している信仰雑誌であり、伝道の基盤をなすもの。
誌上法話と信仰体験発表という二本柱があり、片や講師先生の練りに練った「お取次ぎ」、片や自らの体験を自らの言葉でつづる「生の声」
法の言葉と、機の言葉が並んでいるところにその凄さがあるんじゃないだろうか。
一方的な法語の押し付けだけでもなく、独りよがりの自讃でもない。
ただ、この本に書かれていることを記憶したり体験をなぞったりするためではない。それらを鏡として、「我が信」を問うていく、そこが大事。
といいつつ、私がまず読むのは「巻頭言」
これが良い。
いろんな人が、自分の言葉で法のことを語る。
よくよく読んでみると、筆者が変わっても同じことを言っているようだ。
逆に、同じことなのに筆者によって”味”は変わっている。
手軽な冊子なので、いつでも手に取ることが出来るし、どこから手をつけることも出来る。
それに、こちらが忘れている頃に手元に届き、引き戻してもらえる。
これほどのお手回しはないんじゃないだろうか。