コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

純粋性と自己一致の迷宮

2008-04-14 01:58:06 | 真宗カウンセリング
話をしたり聞いたりというコミュニケーション。
双方に話したいことがある場合、双方が言いたいことを言い切るというのは難しい。
どちらかに主導権が生まれるじゃないだろうか。

仕事や近所づきあいなど、利害が絡むとどちらも引けなくなるんで、相手の話をじっくり聞くという行為よりも主張を聞いてもらうということに神経が行ってしまいがちですね。
そうなると、お互いに「わかってもらえない」状態ですからキリがない。
じゃあ、どちらかが引いて”聞く”に徹すれば丸く収まるのか…ねぇ。

カウンセリングの”聞く”ということには”関係”が出来ているかどうかが大きなウェイトを締めるように思う。
「これから15分間は○○さんの時間です」というルールを設定するミニカンだと、まずは役割の関係がしっかり作られ、秘密厳守などのルールによって信頼という関係が作られ、クライエントがその関係を受け入れることができれば、そこには共感できる時間が生まれるんだろうけど。

ということは、普段の生活の中でも話し手・聞き手の役割が出来ればスムーズにいくのかな。

しかし、冒頭の話のように双方に話したいこと・主張がある。
そのままじゃ駄目だから一方が引く…そのときに聞き手に回る方が充分納得していれば「私は聞かせてもらおう」という気持ちと態度で自己一致できるのだろうか。
実際は「しかたなく聞き手に回ろう」となるんで、やはり不一致なのだろうか。
「相手との関係を大事にしよう」ということを重視するなら、自分が主張したいということより関係を重視できるから一致なのか?

うーん、相手を尊重・大事にしたいと言う「純粋性」のために自己を殺すことが良いんだろうか…そうすると自分に対しての純粋性が犠牲になってしまう。

まぁ、実際は上手くバランスを取るべく努力し続けるか、自分を殺して楽を取るか…やっぱり我慢しきれず、主張を曲げずに相手を押さえにかかるのか…。

うーん、どんどん迷宮にはまっていく。
もう一度、いちから勉強しなおしだな。
わかってる”つもり”が一番怖いからね。