コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

変わらんもの 変わるもの

2008-04-28 14:26:18 | 真宗
日曜礼拝でした。
ご法話のテーマは「きく」
4月になり新年度ということで、子どもたちに一年間「きく」ことを大事にしてほしいという思いも込めて。
残念ながら私は事情で途中で抜けたりしたのですが、「聞く」と「聴く」を対比させて、心を入れて「聴く」という流れだったように思います。

ご法話の後は学年に分かれて座談です。
私は大人のグループへ。
子ども向けの短い法話でしたから、大人の皆様はこのテーマでもっと聞きたかったようですね。
私もこのテーマにはこだわりがありますから、内に耳を向ける「聞く」、外に耳を向ける「聴く」、そしてそれが腹底に響いてくる「効く」という、いろんな先生に何度か聞かせていただいたお話をさせていただきました。
人によっては「聴く」のほうが上等な気がするという方も居られましたが、「聴聞」として両方使ってますしね。
題材のしかたによって、この二つの漢字の扱いも変わることがありますが、機の内なる声を聞き、法の願いを聴き、という機法いったいとして大事にしたいという思いがありますね。

座談での細かい内容は書きませんが、深~く味わったことがあります。

求道の過程で「阿弥陀様に願われている」ということに包まれる”気づき””心境”になる人が、一方で自分の無常をなかなか受け取れないということがあります。
周りの方としては「それじゃあおかしいじゃないかと」
まぁ、その辺は言葉の使い方や態度によって伝わることもあるので、ブログでうまく伝えきれないところでもあるのですが…
私のところで言うならば、本願に出会うことと、死ぬことが怖くなくなることは一緒ではないんですよね。
そういう”予想”していた心境の変化と、自分に起こる変化を比べて、「違う」と自分で判断してしまい、「願われている」ということまで否定してしまうってのは本当にもったいないなと。
いつまでも執着は消えず、願われていることすら忘れっぱなしのやつが、自分では知らないだけで「よるひるつねにまもるなり」と願われ続けている。
それこそ、私の側の心境などお構いなしです。
そういう事実を聴かせていただくと、下がらん頭が下がり、合わさらん手が合わさり、南無阿弥陀仏が飛び出してくる…効いてきます。

どうしても人の姿を見て、比べて、自分の予定概念にとらわれてしまう。
人からの評価を気にし、獲信の烙印を押してもらいたくなる。

周りの人はあくまでご縁で、向かい合うべきは阿弥陀仏。
私と阿弥陀様の一対一の出会いなんですね。