昨日は出張で帰ってきたのが日付が変わる直前でした。
ということで、一日書くのが遅れましたが「花祭り」の話題です。
朝、保育園に子どもを送っていったら「花御堂」が用意されていました。
子どもらはみんな家から花を持ち寄り、飾りつけられていきます。
天と地を示した「おしゃか様」に甘茶をかけてお参りします。
出張の行きしなに西本願寺の前を通ったのですが、興正寺の前には大きな仏旗が飾られ、本山の門を入ったところには「白い象」が見えました。
おそらくその奥に花御堂があったんでしょう。
他の方々もブログや日記に花まつりのことを書かれていますが、ひとつの日記を通じて、ちょっと考えさせてもらったことがあります。
まずは元の日記ですが、抜粋して引用してますので多少著者の意図と外れるところがあるかも知れません。
引用の意図は、その日記自体のことを云々することでなく、そのことで私が思い至ったことを書きたいということですので。
以下は引用です。
おめでとうございます
なにが、おめでたいか? それは、人間が仏陀(覚者)に成ったからです。
インドのシャキャ族の王子ゴータマ・シッダルタは、ひとりの人間として生まれました。
人間として、「この世」に生まれ、悟りを開き、生涯を過ごされました。
これは、すごいことだと想います。
人間は、だれしも高次の霊的存在と成る可能性を持って生まれたという「証し」になるだからです。
なんという素晴らしいことでしょう。
人間は、仏陀やイエスやムハンマドになれる可能性をだれもが持っている。
こんな素晴らしい希望が、他にあるでしょうか!
以前の書き込みに『究極は「仏に成る」』という表現をしたのですが、私自身が仏陀になる…という感覚はありませんでした。
シャカ族の王子シッタルダは、自ら悟りの身になりましたが、ある意味特別な存在だったと思っています。
他にも自らの行などにより悟りの位に入られた方は居られるかもしれませんが、他者を悟りに導くほどの人はいないでしょう。
そう、仏陀は一度は「こんな悟りを人に伝えることは無理だ」とお考えになられたのです。
仏同士の言葉で伝わるものを、人間の言葉で伝えるなど…。
しかし、仏陀が伝道の道を採られなければ、今この私に弥陀の本願が伝わることはなかったでしょう。
そんな存在にこの私がなれる可能性がある…うーん、そうとは思えません。
やはり、自他力廃立ということを教えてもらうことで、転迷開悟に至ると考えることが当たり前のようになっている自分に気づきました。
自らの力では悟りを得ることなどできない…しかし、人間の身にさせていただいたことで、人間の言葉で法に触れさせてもらえるし、南無阿弥陀仏を称えさせてもらえる。
そこには、人間として悟りを得られたお釈迦様が生まれてこられなければ… だからお祝いさせていただきます。
「天上天下唯我独尊」誕生の後、七歩あるいて(六道を超える)示された言葉です。「われひとり尊し」そういえるだけの「悟りの道」を示してくださったのですね。