コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

「強制」「強要」による傷

2008-04-08 00:13:15 | 日常雑感
今日は娘の高校入学式でした。

校門に至る道に「日の丸・君が代強制」に反対する立て看板、校門の前ではビラ配りがされていました。
式典が始まると、まず「全員起立」の合図、ついで「君が代を斉唱してください」との言葉。
事前に次第をチェックしておけば良かったのですが、いったん立ってしまったものを「強制されることに異議がある」ということで着席するのもなんなんで、一応立ってはいました。もちろん、歌いはしません。
「君が代を斉唱しますのでご起立ください」と言われていたら、そのまま立たなかったでしょうね。

さて、私は「日の丸・君が代強制」を認めません。
特に、教育の場で「強制」とすることには納得がいきませんね。
「日の丸が国旗であることを喜び、君が代が(ある特定の人のための歌でなく)国歌なんだ」ということを誰しも認められるのならば、なにも強制しなくても、「これこれこういう理由だから、どうどうとこの旗や歌を敬いましょう」と話し合い、認め合い、納得させてくれれば良いんです。
つまり、指導する側も納得させる自信がないから「強制」という手段をとるんでしょう。

ましてや、従わないから罰を与えるなんて理解できません。
たとえそれが公務員であっても、公務員だから「国の判断に絶対服従」というのはおかしいですよね。
一度でも「国の判断」に誤りがなかったのならばまだしも…

少し話題がそれましたが、子育ての場面や教育の場面で、この「強制」「強要」という事を通じて多くの人が「傷」を負っているんじゃないんでしょうかね。
私自身、よくこのことを忘れて子どもにきつくあたってしまいます。
「○○しなさい!」
「なんで○○できないの!」
もちろん、場面によって一概には言えないのですが、やはりこうありたいです。
「おとうさんは、○○してほしいな」
そう、私メッセージですね。
そうして、じっくり時間を掛けて話し、説明して、本人が納得してからやらせる。
「形から入る」ことの大事さも判りますが、言葉でやり取りして、自分で「やろう」と思ってくれるとこちらもうれしいですしね。
「育ててる」と思ってしまいがちですが、じつは「育ちあい」をしているってことを忘れないでいたい。

今日の入学式では、君が代の伴奏だけで歌声が聞こえてこなかった気がします。
新入生達が自分の意思で「歌わない」選択をしたのか、ただ気恥ずかしかったのか…ただ、うちの娘とはそのことを少しだけ話し合う時間が持てました。

もう少し「君が代・日の丸」に関わる話も書くつもりでしたが、興味のある方は各自お調べください。