コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

支部法座…でも法座の中身よりも

2009-08-17 00:38:25 | 真宗
華光会の京都支部法座でした

Mさまのお宅で、毎年お盆の法要を支部法座として開放してくださっています。
増井先生をお招きして、阿弥陀経のお勤めの後ご法話。
「本願のこころ」をテーマに聞かせていただきました。

ご法話のあと、座談で参加者がひとことづつ感想や味わいを述べていきます。
最後に先生に一言お願いした際、私にとっては鉄槌を食らわされたような一言をいただきました。

内容を書くかどうか迷ったのですが、それは今日の法座に参加した者だけが肌で感じているところなので、ここで言葉にしても本意が伝わらないかもしれないのでやめておきます。

私の感覚として、「お叱りを受けた」というものです。

その感覚は、おそらく私自身のここ数日の気持ちに連なっています。
先日の富山でのご法座でも先生のお話を聞かせていただき、座談もごいっしょさせていただきました。
その時から「不自然」なのか「自然」なのかが、自分でもわからない嫌な感じで、それでも法のことになると自分じゃない自分がそこに居て、そのことを通じて味わう事があります。
そんな私のもんもんとしたことをして、先生の叱責があったのかどうかはわかりません。
ただ、わたしとしてはそういう”我”に突き刺さります。

昨日の書き込みで「触れないでおこう」と書いた気持ちがぐらついてきます。
対峙しないといけないのか…
いやむしろ、その躊躇を振り捨てて、それを抱えたままの私でも”聞かせてもらう”という根本に帰れということなのか。
あぁ、こういう感覚自体が邪魔なものだろうなと。

これ以上は上手く言葉に出来そうにない…というか、こんな自分に付き合っていてもろくなことは無いので、この辺でやめておきましょう。

ただ「堪えた」というのは、深く深く刻まれています。

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