コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

2008-04-11 01:14:52 | 真宗カウンセリング

いろいろやりたいこと、やらないといけないこと満載なのですが、”自分に優しい”私は無理をせず、怠けながら広く浅くいろんなことに手を出していきます。

その中のひとつにホームページ運営があるのですが、これがなかなか進まない。
とりあえず情報提供物だけでも早くしたいのですが…ということで、昨日から真宗カウンセリング研究会の年間行事を紹介するページを、他の仕事の合間に行ってます。
(いろんなことを平行してやるより、ひとつづつ片付ける方がいいのはわかっているんですがね)

このブログの下のほうを見ていただければわかるとおり、かなり長い間研修会に参加できていません。
しかし、今回アップしようとしている年間行事の案内分を読んでいると、ここ数年間で大きく変化した私の”受け取り方”をおさらいさせていただいている気がします。
身についているかどうかは疑問ですが、知らなかった頃とは大きく違いますね。

そこには「西光義敞先生」の言葉が示されています。

「人間が真の人間になる道」
「南無阿弥陀仏の法を中心として『いま・ここ』の交流関係を重んじる援助的人間関係」

表に出てくるのは人間どおしの”関係”ですが、私の底には”法”が流れており、自然にしていればその影響が現れてきます。
またそのことは常に相手に対してではなく”私”に向かってきます。
それが現れる場が、過去の自分を悔いたり振り返ったりではなく、またこれからの目標ではなく、「いま・ここ」において事実を事実として受け止めていく作業の連続です。

でも、こういう感覚もひとりで聞思していれば、自分の枠に収めてしまいますね。
だから研修会の場にでたり、先輩方の言葉や態度に触れる必要があります。

今年度は不思議なめぐり合わせで(ある意味必然でしょうが)いくつかの研修会の世話役を引き受けることになりました。
自分からは動かず、縁に任せて動かされる私ならではでしょうか。

華光の法座にしてもそうですね。
子どもがお習字を習っているので、会館に送っていったときに、いろいろな事情から今月の法座に誘われました。
不参加を決めていたんですが、縁が整うときはこういう流れがあるようで、まるで凍っていた気持ちが溶ける様に、参加することへの障りがなくなっています。
まだ調整ごとがあるので決定ではないですがね。


私を中心に起こる「いま・ここ」だけをたどるだけで、動いていくものがあるようです。
その流れはまぎれもなく「真宗とカウンセリング」ですね。


はなまつり

2008-04-09 23:44:28 | 真宗カウンセリング

昨日は出張で帰ってきたのが日付が変わる直前でした。
ということで、一日書くのが遅れましたが「花祭り」の話題です。

朝、保育園に子どもを送っていったら「花御堂」が用意されていました。
子どもらはみんな家から花を持ち寄り、飾りつけられていきます。
天と地を示した「おしゃか様」に甘茶をかけてお参りします。

出張の行きしなに西本願寺の前を通ったのですが、興正寺の前には大きな仏旗が飾られ、本山の門を入ったところには「白い象」が見えました。
おそらくその奥に花御堂があったんでしょう。

他の方々もブログや日記に花まつりのことを書かれていますが、ひとつの日記を通じて、ちょっと考えさせてもらったことがあります。
まずは元の日記ですが、抜粋して引用してますので多少著者の意図と外れるところがあるかも知れません。
引用の意図は、その日記自体のことを云々することでなく、そのことで私が思い至ったことを書きたいということですので。
以下は引用です。

 

 おめでとうございます

 なにが、おめでたいか? それは、人間が仏陀(覚者)に成ったからです。
インドのシャキャ族の王子ゴータマ・シッダルタは、ひとりの人間として生まれました。
人間として、「この世」に生まれ、悟りを開き、生涯を過ごされました。
これは、すごいことだと想います。

人間は、だれしも高次の霊的存在と成る可能性を持って生まれたという「証し」になるだからです。
なんという素晴らしいことでしょう。

人間は、仏陀やイエスやムハンマドになれる可能性をだれもが持っている。
こんな素晴らしい希望が、他にあるでしょうか!



以前の書き込みに『究極は「仏に成る」』という表現をしたのですが、私自身が仏陀になる…という感覚はありませんでした。
シャカ族の王子シッタルダは、自ら悟りの身になりましたが、ある意味特別な存在だったと思っています。
他にも自らの行などにより悟りの位に入られた方は居られるかもしれませんが、他者を悟りに導くほどの人はいないでしょう。
そう、仏陀は一度は「こんな悟りを人に伝えることは無理だ」とお考えになられたのです。
仏同士の言葉で伝わるものを、人間の言葉で伝えるなど…。
しかし、仏陀が伝道の道を採られなければ、今この私に弥陀の本願が伝わることはなかったでしょう。

そんな存在にこの私がなれる可能性がある…うーん、そうとは思えません。
やはり、自他力廃立ということを教えてもらうことで、転迷開悟に至ると考えることが当たり前のようになっている自分に気づきました。
自らの力では悟りを得ることなどできない…しかし、人間の身にさせていただいたことで、人間の言葉で法に触れさせてもらえるし、南無阿弥陀仏を称えさせてもらえる。

そこには、人間として悟りを得られたお釈迦様が生まれてこられなければ… だからお祝いさせていただきます。

 「天上天下唯我独尊」誕生の後、七歩あるいて(六道を超える)示された言葉です。「われひとり尊し」そういえるだけの「悟りの道」を示してくださったのですね。


「強制」「強要」による傷

2008-04-08 00:13:15 | 日常雑感
今日は娘の高校入学式でした。

校門に至る道に「日の丸・君が代強制」に反対する立て看板、校門の前ではビラ配りがされていました。
式典が始まると、まず「全員起立」の合図、ついで「君が代を斉唱してください」との言葉。
事前に次第をチェックしておけば良かったのですが、いったん立ってしまったものを「強制されることに異議がある」ということで着席するのもなんなんで、一応立ってはいました。もちろん、歌いはしません。
「君が代を斉唱しますのでご起立ください」と言われていたら、そのまま立たなかったでしょうね。

さて、私は「日の丸・君が代強制」を認めません。
特に、教育の場で「強制」とすることには納得がいきませんね。
「日の丸が国旗であることを喜び、君が代が(ある特定の人のための歌でなく)国歌なんだ」ということを誰しも認められるのならば、なにも強制しなくても、「これこれこういう理由だから、どうどうとこの旗や歌を敬いましょう」と話し合い、認め合い、納得させてくれれば良いんです。
つまり、指導する側も納得させる自信がないから「強制」という手段をとるんでしょう。

ましてや、従わないから罰を与えるなんて理解できません。
たとえそれが公務員であっても、公務員だから「国の判断に絶対服従」というのはおかしいですよね。
一度でも「国の判断」に誤りがなかったのならばまだしも…

少し話題がそれましたが、子育ての場面や教育の場面で、この「強制」「強要」という事を通じて多くの人が「傷」を負っているんじゃないんでしょうかね。
私自身、よくこのことを忘れて子どもにきつくあたってしまいます。
「○○しなさい!」
「なんで○○できないの!」
もちろん、場面によって一概には言えないのですが、やはりこうありたいです。
「おとうさんは、○○してほしいな」
そう、私メッセージですね。
そうして、じっくり時間を掛けて話し、説明して、本人が納得してからやらせる。
「形から入る」ことの大事さも判りますが、言葉でやり取りして、自分で「やろう」と思ってくれるとこちらもうれしいですしね。
「育ててる」と思ってしまいがちですが、じつは「育ちあい」をしているってことを忘れないでいたい。

今日の入学式では、君が代の伴奏だけで歌声が聞こえてこなかった気がします。
新入生達が自分の意思で「歌わない」選択をしたのか、ただ気恥ずかしかったのか…ただ、うちの娘とはそのことを少しだけ話し合う時間が持てました。

もう少し「君が代・日の丸」に関わる話も書くつもりでしたが、興味のある方は各自お調べください。


ミーティングなど

2008-04-06 15:17:48 | 真宗
昨日は2回華光会館を訪問。
1回目は昼で、パソコンで気になる動きがあるということでそのチェック。
これはビジネスとして、華光会館のパソコン・ネットワークシステム管理を請け負っているので、そのお仕事として。
まぁ問題は大したことはなかったのですが、パソコンの場合変な動きが起こった時にほって置くといろいろ不具合につながったりしますから、早めの処置が必要です。
そういう意味で、近所に住んでるのは幸いですね。

もう一回はちょっとしたミーティング。
まだ内容を表には出せませんが、「こういうことをしてみたいが、どうですか?」と言う相談。
今は担当者レベルですが、じっくり考慮して「良い方向」にむけての提案なんで、とてもうれしいものを感じます。
もちろん、「良い方向」というのは提案者の独りよがりじゃなくて、「ご法の相続」のためのもの。

難しいのは、その「良い方向」というのが万人にとって「同じ方向」ではないってこと。
まぁ、究極は「仏に成る」ってことで同じなんですが…

で、私の役割はその目指すものが偏らないようにアドバイスすること。
同時に、そのエネルギーを大事にしてあげることだと思ってます。
本当はまだまだ”参加者”でいたいんですが、それは別の表現方法を私は持ってますのでね。

で、今の時点のアイディアを聞かせてもらった上で、少しのアドバイスと、次は人数を増やして意見交換しようというところまで決めて終わり。

早く進めたい気持ちと、じっくり暖めたい気持ちと両方ありますね。

ほんの短い時間のミーティングでしたが、「仏法を喜んでいる」エネルギーとそれを「外に向けることで深めていく」エネルギーを感じました。
私がそういう形で法を深めさせてもらったってことがありますから、そういう意味でもうれしいですね。
私が全部しなくても、いろんな人がいろんな形で「私のやりたいこと」をしてくれている。

もちろんそれは、この私のためではなく、それぞれの「私」のためなんですがね。
その大元は弥陀の「どうか聞いておくれよ」に他ならないですね。
その対象は私です。

南無阿弥陀仏

ケコウ(華光)誌

2008-04-05 00:38:40 | 真宗
ケコウ誌の新号を1日に入手した。
じっくり読んでそのことに触れようと思ってたが、このブログをリニューアルしていきなり風邪で寝込んでしまった。
殊勝なことはするもんじゃないね。

「巻頭言」と「聖教のこころ」はじっくり拝読したが、ほかはまだ流し読み程度。
なので、内容についてはあらためて書くこととして、今回はこの冊子の紹介。

華光会は発刊している信仰雑誌であり、伝道の基盤をなすもの。
誌上法話と信仰体験発表という二本柱があり、片や講師先生の練りに練った「お取次ぎ」、片や自らの体験を自らの言葉でつづる「生の声」
法の言葉と、機の言葉が並んでいるところにその凄さがあるんじゃないだろうか。

一方的な法語の押し付けだけでもなく、独りよがりの自讃でもない。
ただ、この本に書かれていることを記憶したり体験をなぞったりするためではない。それらを鏡として、「我が信」を問うていく、そこが大事。

といいつつ、私がまず読むのは「巻頭言」
これが良い。

いろんな人が、自分の言葉で法のことを語る。
よくよく読んでみると、筆者が変わっても同じことを言っているようだ。
逆に、同じことなのに筆者によって”味”は変わっている。

手軽な冊子なので、いつでも手に取ることが出来るし、どこから手をつけることも出来る。
それに、こちらが忘れている頃に手元に届き、引き戻してもらえる。
これほどのお手回しはないんじゃないだろうか。

リニューアル

2008-04-02 14:26:02 | 真宗
今までは、仏法に関することは「BBS」で、カウンセリングに関することはこの「ブログ」で、と分けていましたが、どちらも滞りがちなのでこのブログに一本化しようかなと。

というのも、仏法のことは出来れば一方的な発信ではなく、相互のやり取り、はてはクロストークになっていく醍醐味が大事だと思っていたのです。
でも、時代の変化もあるのでしょうか、ブログと言う形の方が気楽だしね。

その分、仏法に関してはもっと濃いものを準備中(1年以上前から準備はしてるのですが…)

あと、真宗とカウンセリングを無理に分けなくても、”私”をつうじてつながっているだろうから、ここで両方の表現をしていってもいいかなと。

ついでに雰囲気も、今までどおり緑を基調としながらも違うテンプレートに変えてみました。

ホームページのTOPも変更予定ですが…こちらは仕事の都合と折り合いをつけながら、ぼちぼちと。

4月1日に動く手もあったのですが、「エイプリル・フール」と思われるのも…なんて、じつは風邪で早々にねちゃったもんで、一日ずれました。

さてさて、どうなることか。
まぁ、気長にお付き合いください。