生涯学習の部屋

資格取得数238。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

日々の生活の中で・・・

2009年05月05日 09時49分28秒 | その他
仕事とは何か?ふと、そんなことを考えることがある。

その原因となるのが、若い人達の目標意識の欠如である。3年後、5年後、10年後、何になりたいといった目標意識が欠けている。

目標があれば、その目標達成のために、今、何をしなければならないのかということがはっきりする。しかし、その目標が定まらないために、ただ、日々の仕事を片づけるだけで終わりになっているような気がする。

そもそも、私は海外勤務を希望していた。だが、その夢はかなり早い段階で破れた。そして、次の目標として、外国為替の知識を極めようと思った。仕事の上で、かなり失意を負ったことがあり、目標を見失いそうになったが、書籍を買いあさり、通信教育を受講し、セミナーに通った。その甲斐あって、巷の図書館より多数の書籍を買い集め、そのボリュームに比例して、スキルも向上していった。

地方でくすぶっていたが、外国為替のプロジェクト立ち上げとともに、本部に招聘され、厳しく、非常にタイトな中にも、何かを成し遂げたという満足感を得ることができた。

資格を手当たり次第に取り出したのも、当時であった。会社を辞めるつもりはさらさら無かったが、「辞めてくれ」と言われれば、未練たらしく残るつもりはなかったし、閑職であったから、時間が山のようにあったので、色々なことを学習した。色々といっても、基本的には会社に認められる(登録できる)資格を取り続けている。

そもそも、大学や大学院で学び直しているのも、会社で将来必要となるであろうと勝手に思っている知識やスキルの習得のためである。

無論、そういった知識・スキルが、会社という範囲を飛び越え、誰かに伝えることができれば、これほど嬉しいことはない。まあ、今の働きの中ではムリだろうが。

自分自身としては、何かとやるべきことを考えて対応してきたつもりであるが、今の若い衆はどうなんだろう(ジジ臭いといわれそうだが・・・)。

マーケットで通用するくらいの知識やスキルがなければ、到底、キャリアメイクすることなんぞ不可能だし、その程度の能力開発ができていなければ、自分に価値がつかないということがどうしてわからないんだろう・・・

GW返上で資格取得に燃えるサラリーマンもいると報道されていた。その程度の熱意がなければ、いつまでたっても、その他大勢から抜け出せない。(1000字)
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修士について。

2009年05月05日 09時20分56秒 | ちょっと立ち止まって・・・
同じく、部屋を整理していると、産能大学院時代にいただいた「イトーヨーカドーグループ寄附講座」の冊子(47ページ)が出てきた。

これは、私が入学する前年(2005年9月9日)に鈴木代表に担当していただいた公開講座の内容を本学が冊子にしたものである。

現在、同社の寄附講座はなくなってしまったが、私が1年の時まで続いていた。同社以外にも、花王や野村證券の役員クラスが講義をもたれる講座もあったし、その他の講座でもゲストに上場会社の役員・代表取締役が招聘されることも、ままあった。無論、役員でなくとも、実務に詳しい現場の方が担当されるケースもあった。

さすが、実務家の講師割合9割と、トップクラスのMBAコースである(とはいえ、今は、MBAコースではなくなってしまったが・・・)。2年トータルでかかった費用が約150万円と、他大学院の初年度納付金額程度のコストで修了できたのもありがたかった。

授業の内容は、このブログの中でも触れてきた。従業員、何千、何万という企業のえらいさんがわざわざ仕事の合間を縫って講義をされるわけで、何か発言しなければ、申し訳ないと考えるのが私の狂った思考である。

その企業ではえらいさんでも、教室では対等。しかし、先生と生徒という立場はあるわけで、その微妙な関係の中で打って出る。時に失笑を買うこともあれば、いい質問と喜ばれることもある。

しかし、それができて、修士といえるのではないだろうか?発言せず、単位を集めるだけで、何が面白いのだろう。自分の知識+講義の内容から導きだされる疑問。それを講師に説明し、問題解決の糸口を探る。そういう実践ができたことが、授業の中で得たものであると確信している。

偉い人でも、凄い人でも、有名な人でも、人は人。肩書きがハズれりゃ、同じ人間。恐るるに足らぬ。無論、その方の経てきた人生は尊敬しなければならないが、尊敬のあまり、畏怖する必要は全く無い。

おかしいことはおかしいし、わからないことはわからないのだ。「わかるように説明できない先生の方がおかしい」と割り切って、質問し、発言する。

これが、少人数制のよいところであり、時には100人近く詰め込む講座との違いである。少ない人数だと、発言しないのがバレてしまうから。

一本通った己の信念。それがなければ修士に値しないと思っている。(1000字)
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学士について。

2009年05月05日 06時31分24秒 | ちょっと立ち止まって・・・
朝の3時から部屋の整理をしていた。

おかげで、机上は修士論文モードともいえるような様相となった。なんせ、資格の本ばかり(笑)。

資格に紛れて、「インターネットでMBA・修士号を取る」やら「通信教育の大学・短大・大学院案内」やら「社会人大学院で何を学ぶか」とか「社会人大学院入学・活用ガイドブック」とか「社会人が大学・大学院で学ぶ法」とか大学・大学院関連の本が多数出てきた!

その昔、教育学の学位を授与機構に申請したときに使った本である。私は生涯学習において、学校教育は不可欠だと思っている。独学では限界がある。そして、効果的かつ効率的な学習を進めるためには、どうしても先達が必要となってくる。

徒弟制度や弟子入りの言葉があるように、以前は、親方や家元について学習し、その技を盗んだものだ。現代社会においては、仕事をしながら弟子入りしたり、それ以前に親方を探す方が大変である。

その点、学校には研究や指導を生業としている人がたくさんいる。その先生に弟子入りすることが、スキル向上・知識習得にとって非常に都合がいいわけだ。

高学歴化が進んだため、大学院に行こうと思っている方が増えてきた。無論、それは非常にすばらしいことであり、賞賛に値する。しかし、本当に、大学院の門をいきなり敲くことがよいのか私にはわからない。

私は臆病者である。自信も、プライドも持ち合わせていない。だから、「学士」を経てから大学院に挑戦している。

産業能率大学大学院(修士:経営情報学)の場合は、通信制の産能大学で「学士:経営情報学」を取得してから、大学院に進んでいる。また、今、2年生である明星大学大学院(修士見込:教育学)の場合は、入学半年前に学位授与機構で「学士:教育学」を取得してから受験している。

私の知っている人には、高校卒から大学院に行かれた方、あるいは短大卒から大学院に行かれた方もいる。しかし、その方々は、社会人として、学士相当以上の経歴をお持ちで、しかも、難関の試験に合格されたからこそ、入学が許可されたわけで、その能力は確かなのだ。

私の学問は一見我流。だから、本当に、大学院の合格ラインをクリアしてるか不安で仕方がない。だからこそ、同じ学習分野の学士を取得しているわけだ。たかが学士という人もいるかもしれないが、私にとっては安心の目安なのである。(1000字)
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おかげさまで、840,000件!

2009年05月05日 02時58分57秒 | アクセス
昨日、アクセス件数が840,000件を突破しました。

これも、ひとえに皆さまのご支援の賜物と感謝しております。

今後とも、よろしくお願いいたします!


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