クリンの広場

たまっこくりんのおもいのたけ

野中婉という女~クリン家ドライブ四国旅行・30

2017-03-23 | 旅行記

 「山内一豊の妻」とならんで、高知女性を もうひとり。

 

のなかえん(かんじ:野中婉)

という人について

ちょっとふれておきたい、

と 思います。。


 (大原富枝「婉という女」より

 

野中えん(婉)

江戸初期に 実在した 

高知女性で、


 そのお父さんは、土佐はん(藩)のじゅうちん(重鎮)だった、

野中けんざん(兼山)

という、有名人

 

 はん(藩)主の血を引き、学者としても、政治家としても

ゆうしゅう(優秀)な

けんざん(兼山)は、

当時、

はん(藩)の先頭に立って、

「改革」を

バリバリ・こなしていました


 ところが・・ これがまた、「いごっそう」そのものと 言っていい、

がんこな性格で

周りのいけん(意見)をきかず

強引に

改革をすすめてしまった 

結果、、

 みんなから にくまれて、けんざん(兼山)は

しまいに「幽閉」されて

しまいま


 野中えん(婉)は、この時、家ぞくといっしょに

「幽閉」された、

けんざん(兼山)の

四女です

 えん(婉)は、この時4才でしたが、

父が失きゃく(脚)してから、

以後 40年以上

外に出ることを、

ゆるされませんでした・・ 

 

 父・けんざん(兼山)は、「幽閉」後、すぐに

死んでしまいましたが

土佐はん(藩)は 

いぞく(遺族)をゆるさず、

 「兼山の血を引く男子が 全員死に絶えるまで、

野中一家は 全員外に出るな

命じたのです


 とじこめられた・野中一家は、存在をタブーし(視)され

不自由な生活を 

しいられ、

世間とかくぜつ(隔絶)すること

数十年・・


 その間、「幽閉」された家の中では、けんざん(兼山)の 長男が病死 

次男が狂死 

三男が病死 

四男は自殺

五男は?で、

六男が自殺

さらに、

とついでいた・長女も送られきて、死亡・・

 

という、

 世にもおそろしい・生きじごく(地獄)が くり広げられました

 さいごまで生きていた・けんざん(兼山)の四男が

1703年に自殺して、

女だけになったところで、

野中一家は 

やっと

かいほう(解放)されます。。


が、

 生きて出られたのは、3人の娘たち、80代の母、

そして、

60代の乳母だけ。。


 えん(婉)はそのとき、44さい(歳)に なっていました・・


 「大罪人の娘」として、ふつうに生きることを

きん(禁)じられ、

外界にふれずに 育ち、

けっこん(結婚)も ゆるされず、、


 せまい家の中で 兄弟たちが「非業の死」をとげる・・

そんなさまを

見つづけてきた・えんは、

 弱りきった・母をささえて、ざしき(座敷)牢から 出てきた時、

いったい、

何を 思ったろう・・?


 たぶん、「うれしい」ってかんじでは なかったんじゃないかな・・?


そうぞう(想像)なんて

できないけど、


 クリンは そう 思います。


 えん(婉)はその後、がんばって医者になり、残り少ない後半生を

人のために

つくしたそうです(えらすぎ



小説では、

このえん(婉)

「幽閉」中、

ゆいいつ・交流をもっていた

谷じんざん(秦山)

という男性に、

恋心をよせるさまが 描かれます


 えん(婉)たちは、外出も、外界との交流も、

きん(禁)じられて

いましたが、


けんざん(兼山)の弟子として

野中一家を 気にかけつづけた

谷じんざん(秦山)

とだけ、

 年に一度、学問上のしつもん(質問)と、詩のやりとりにかぎり

手紙を送りあうことを

ゆるされました。


 会ったことはないけれど、自分たちに同じょう(情)をよせ、

長く見捨てずに

つきあってくれる、

きょうよう(教養)のある

青年武士


それだけで

えん(婉)があこがれて

むねを こがすのは

とうぜん(当然)のこと


作者の大原さんは、

そう思って

このお話を 書いたのでしょう。


 谷じんざん(秦山)は、まさに えん(婉)のきぼう(希望)で、

生きる支え

だったにちがいない


クリンだって

そう思います。


でも・・

 小説でも じっさいでも、えん(婉)は・・

 

じんざんとも、

だれとも、

むすばれることは ありませんでした。。



・・・・・


なんて、むくわれなくて、


なんて、かなしい女の人生なのでしょう「アンギャ~!!







(その31、「土佐のいごっそう・板垣退助」に、つづく)




















 

 

 

 

 

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山内一豊の妻と高知女性~クリン家ドライブ四国旅行・29

2017-03-23 | 旅行記

 司馬さん(かんじ:司馬遼太郎)により 生み出された、

ばく(幕)末のヒーロー・坂本りょうま(龍馬) 

 同じく、司馬さんが書いた・小説「功名が辻」により、

あらためて

広く

にんしき(認識)されたのが、

 やまうち・かつとよ(山内一豊)のつま(妻)です(昔は「やまのうちかずとよ」って言ってました)


 「山内一豊の妻」の夫、である、「山内一豊」とは、

 「 織田家の家中にあって、数にもならぬ貧乏くさい者」

でしたが、

 「 日本史の代表的賢婦人といわれるようになる」

千代と

けっこん(結婚)してから

みるみる出世し

「高知城の主となった、戦国ぶしょう(武将)


しかし

「内助の功」をした・つま(妻)のほうが 有名になってしまい

かつとよの人生は

だいたい、

「妻のついで」に 語られます・・


 (さらに、前土佐国主・長宗我部元親の人気の影にかくれています


さて・・

 夫より有名な、つま(妻)・千代は、何をして

そんなに有名になったのか

というと、

 夫を目立たせるために、へそくりをはたいて、名馬を買わせたり

 関が原で、いえやす(徳川家康)しょうり(勝利)の糸口をつけるのに

一役かったり、

 夫に手柄を立てさせるため あれこれ・おぜんだて(お膳立て)した、

頭がよくて

こうどう(行動)力のある

女性だった。


とのこと


 そんな千代の「内助の功」は、

高知めいか(銘菓)「開運小判」

となって

県民にうけつがれ・・

 さらに、そのきしつ(気質)は、高知女性のきしつ(気質)として

みゃくみゃくと

今に 

うけつがれているらしい。。


 げんざい、「高知の女性」といえば、

気風がよくて

はたらきもの

 「いごっそう」(頑固な高知男性)たちの たづな(手綱)をしめる、

ゆうのう(有能)さをも

もちあわせている

と 

言われます


 「内閣府」のしらべでは、「就業率管理職率起業率」、

どれをとっても、

高知女性は

全国ナンバーワン (テレビでやってました)

 実に たのもしい、しょうさん(賞賛)されるべき・女たち


なのに・・、

 「・・・私、高知に生まれなくてよかった~。

頑固な夫を手なずけながら

バリバリ働く、なんて

できないわ。。

なにしろ私、

専業主婦になるのが 夢だから


うちのチットは 言いました。



・・・・・



ク・・・

クリンも、いかどうぶん(以下同文)ですが 





(その30、「野中婉という女」に、つづく)















 

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