クリンの広場

たまっこくりんのおもいのたけ

高知城で見つけた、いごっそうたち~クリン家ドライブ四国旅行・32

2017-03-25 | 旅行記

 高知のまちの、いちばん目立つところにたっている、

高知じょう(城)

 

こちらは、

 本丸のたてものが、ほとんど・げんそん(現存)する、

全国でもゆいいつのおしろ(城)


ってことで、

もちろん、

中は見どころまんさい(満載)

わけですが・・


 おしろの正門(追手門)のよこ、おほりの手前には、

もっと 必見の、

 高知名物があるそうなので、クリンたち 行ってみました

 机といすを出して、なにやら あつまっている、

おじさんたち (ねっしんに何か見てます


しょうぎだ


 これが、この場所で 半世紀以上つづいているという、

高知の風物し(詩)・「青空将棋」

って

やつだそうです

 

(たのしそう~




(その33、「高知銘菓・かんざしと、はりまや橋」に、つづく)




 

 

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土佐のいごっそう・板垣退助~クリン家ドライブ四国旅行・31

2017-03-25 | 旅行記

 がんこ・いってつ(頑固一徹)で、我がつよく、でも!

すじ(筋)は通す

土佐の男たち

 それは、「いごっそう」と呼ばれ、坂本りょうま(龍馬)

浜口おさち(雄幸)、吉田茂 などなど・・

 郷土のいじん(偉人)に、代表されています

 そんな、「いごっそう」たちの気しつ(質)が 時代のニーズとマッチして、

思いっきり・花開いたのが、明治初期

 「自由民権運動」の時代です

 (←高知市立・自由民権記念館にて

 

「自由民権運動」

とは、

明治政府のやり方が 

キライな人たちが はじめた、

反政府うんどう(運動)で、

 武力にうったえたりは しないけど、マスメディアの力をくし(駆使)して、

政府のダメさかげんを

国民に宣伝する

気長にして、

せんりゃく(戦略)的な、

「組織的・言論活動」

ことだそうです


(※れきしにくわしいチットにききました)


 政府にとっては、あばれてくれないぶん、いちもうだじん(一網打尽)に

しにくいから

やっかいで

「自由」とか「民権」とかを

唱えながら、

明治政府のわる(悪)口を言いまくる

「民権派」に、

だいぶ、キリキリさせられた

らしい・・


 そんな、自由民けん(権)うんどうを 引っぱっていたリーダーが、

土佐のいごっそう、

いたがきたいすけ(板垣退助)

です


 板垣たいすけは、はじめ、軍人で、しかも明治政府の人間でしたが、

方針のちがいから

政府をやめ、

 故郷にかえるやいなや 大々的に「反政府攻撃」を、はじめました


はげしく だんあつ(弾圧)されたり

時に

かいじゅう(懐柔)されたり

しながらも、

 「政府は独走しちゃダメだ 国民の声を聞け

つよく 言いつづけ、

1881年、

「わかった、、じゃあ国会開くよ。。」

政府に 約束させるにおよび

 その人気は、ぜっちょう(絶頂)を むかえます

 「板垣死すとも、自由は死せず」と言ったとして、拍手かっさい(喝采)されたのも、

このころ


 しかし・・、そんな板垣の人生も、このあと・逆風に

さらされます


 国会が開かれるまでに、10年もまたされたため

その間、

「民権運動」は 

世代交代がおこり

彼がつくった自由党も、

若い人が 言うことをきかなくなったり

事件をおこしたり

 内部ほうかい(崩壊)をきたして、手に負えなくなったのです・・


さらに、

明治政府が しかけてきた工作に

まんまとひっかかるなど、

板垣は いくつかの「判断ミス」を

おかすとともに、

 その、人を容れない「いごっそう」的性格が わざわいし

一気に求心力を

低下させてしまった

らしい・・。


 もはや、大臣などのようしょく(要職)についても、

「・・・

 あの人、もう、カリスマ性ないよね。」

みんなから

かげ口を たたかれる始末。。


やがて、

 自由党が、てき(敵)方の「伊藤博文」の手におちるに および、

政界から

いんたい(引退)しました。。


 そんな、「民権運動」に いろいろ失敗しちゃった

板垣たいすけですが、

 政界からしりぞいた後は、かえって、かつて「民権の闘士」と

たたえられていたころの

ような、

いさぎよい・生きざまであったらしいです 

 「維新の精神に反する」といって、しゃくい(爵位)を返上し

それを

かぞく(華族)たちにも呼びかけて、

本当の「四民平等」や

社会改良をめざして、

地道な活どう(動)に

その身と ざいさん(財産)を

投じていたようなのです


 83さいで、亡くなったとき、小さなそうしき(葬式)しか出せない

「資産状況」だったことで、

かつての仲間をおどろかせた

という

話をきいて、、


 「細面だから、イメージは違うけど・・

やっぱり板垣退助も

『いごっそう』なんだなあ~」


と、


うちのチットが なっとくしていました





(その32、「高知城で見つけた、いごっそうたち」に、つづく)



























 

 

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