多賀城は天平時代の737年に、「多賀柵」として日本史文献上に登場する。
多賀城碑には、創建はそれ以前の724年に大野東人(おおののあずまびと)により創建され、762年に藤原朝獦(ふじわらのあさかり)が修造した事が記されている。多賀柵は、780年に多賀城と改められて現在に至る。。。と言っても江戸時代には廃絶後の遺跡として記録されていて、松尾芭蕉等の歌人も訪れている。
この城は陸奥国(福島・宮城・岩手)を治める国府であるばかりか、隣国の出羽国(山形・秋田)まで管轄する、北端の行政府のあった場所でもある。
場所的には仙台と松嶋の間に位置し、仙台平野にある低丘陵に建てられていた城である。
一辺約900mの不正な方形をなしており、周囲には土を固めてその上に屋根を掛けた「築地(ついじ)」で区画されている。
築地は厚さが3m、高さが4mを越すと想定されている。
征夷大将軍・坂上田村麻呂の活躍により、胆沢の地に鎮守府が移されるまでは、国府と鎮守府の両方が置かれていた地である。
国府がここに移って来る前は、仙台市太白区にある郡山遺跡にあったと推定され、地震による津波被害から難を逃れる為に小丘陵地である多賀城に移管されたとの文献もあるようだ。
しかし多賀城も、今年の3月に起こった東日本大震災時に良く比較されていた、平安時代の「貞観の大地震(869年)」で地震及び津波被害に遭った為に、その後一度は復興して行ったようですが、十世紀後半には維持・管理されなくなり崩壊され歴史の表舞台から消えて行ったようである。
江戸初期に土の中より発見された多賀城碑は、表を下(土中)にして埋まっていた為に風雪に曝されず、1000年近くの年月でも表面に彫られた文字が何とか読めたとの事、そのまま立てられて風雪に曝されていた所、多賀城へ訪れた芭蕉により折角の碑文が薄れてしまっているとの記があり、水戸光圀公により仙台藩伊達家に保存命令が発せられ、覆堂が建てられ現在に至っていると言う文献もあるようだ。
江戸時代に掘られた石碑が傍にあったが、彫られた文字が全く読めないのに対して、この多賀城碑は読めるのである。
何れにしろ、こんな覆堂だけで保存された約1300年前に彫られた文字が読める事に驚き、覆堂だけで保存するのは問題があるかも知れないとも感じました。
この碑は群馬県高崎市吉井にある多胡碑(たごひ)、栃木県大田原市湯津上にある那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)と共に、日本三大古碑の一つである。
これで私は三碑を目に焼き付ける事が出来ました。
多賀城の発掘は昭和38に開始され、現在も尚発掘調査中の城跡である。
その都度毎にいろいろな発見があるようで、目が離せない遺跡でもあります。
出土した文献に寄ると、北上川は日高見川、今の栗原は伊治(これはり)等、読み方が似ているが当時の発音から都人が聞いた言葉に変えられているのか?それと時代を経て変わって来ているのか?と言った似たような地名が書かれているようだ。
以前1~2度訪れているのですが、小さい頃だった為記憶が定かでなく、丁度出張中でありながら休みが取れたので出かけて来ました。
ここにある多賀城碑は以前、文体が古風を模しているが「集字体」であったり、彫り方が近代の「箱彫り」と似ていた為、と碑文の内容にも官位・当時は渤海とされていた鞨国の文字、常陸国との距離の相違等、不明な部分があり、江戸時代に仙台藩が作った偽作説が浮上、昭和に入ってからの発掘調査により文献等の出土から文体の記述等より762年前後に彫られた碑である事が判明し、1998年に重要文化財に指定されている。
多賀城跡下の空地にも今年の震災の廃材がかなり積まれており、JR東北本線より海側の被害がかなりあったようである。
廃材に関しては見ていると涙が出てしまい、写真を撮るどころではありませんでした。
現在、ここを舞台に始まった「前九年後三年の役」を描いた高橋克彦氏著書の「炎立つ」(NHK大河ドラマでもやりました)を15年振り位で読み返して見ようと思い、仙台で購入して来ました。
ついでに、それ以前の蝦夷(えみし)の阿弖流為(あてるい)と坂上田村麻呂との激戦で奥六郡平定の舞台を描いた「火怨(かえん)」も読んでみる事に。。。こちらは現在発注中!
多賀城碑には、創建はそれ以前の724年に大野東人(おおののあずまびと)により創建され、762年に藤原朝獦(ふじわらのあさかり)が修造した事が記されている。多賀柵は、780年に多賀城と改められて現在に至る。。。と言っても江戸時代には廃絶後の遺跡として記録されていて、松尾芭蕉等の歌人も訪れている。
この城は陸奥国(福島・宮城・岩手)を治める国府であるばかりか、隣国の出羽国(山形・秋田)まで管轄する、北端の行政府のあった場所でもある。
場所的には仙台と松嶋の間に位置し、仙台平野にある低丘陵に建てられていた城である。
一辺約900mの不正な方形をなしており、周囲には土を固めてその上に屋根を掛けた「築地(ついじ)」で区画されている。
築地は厚さが3m、高さが4mを越すと想定されている。
征夷大将軍・坂上田村麻呂の活躍により、胆沢の地に鎮守府が移されるまでは、国府と鎮守府の両方が置かれていた地である。
国府がここに移って来る前は、仙台市太白区にある郡山遺跡にあったと推定され、地震による津波被害から難を逃れる為に小丘陵地である多賀城に移管されたとの文献もあるようだ。
しかし多賀城も、今年の3月に起こった東日本大震災時に良く比較されていた、平安時代の「貞観の大地震(869年)」で地震及び津波被害に遭った為に、その後一度は復興して行ったようですが、十世紀後半には維持・管理されなくなり崩壊され歴史の表舞台から消えて行ったようである。
江戸初期に土の中より発見された多賀城碑は、表を下(土中)にして埋まっていた為に風雪に曝されず、1000年近くの年月でも表面に彫られた文字が何とか読めたとの事、そのまま立てられて風雪に曝されていた所、多賀城へ訪れた芭蕉により折角の碑文が薄れてしまっているとの記があり、水戸光圀公により仙台藩伊達家に保存命令が発せられ、覆堂が建てられ現在に至っていると言う文献もあるようだ。
江戸時代に掘られた石碑が傍にあったが、彫られた文字が全く読めないのに対して、この多賀城碑は読めるのである。
何れにしろ、こんな覆堂だけで保存された約1300年前に彫られた文字が読める事に驚き、覆堂だけで保存するのは問題があるかも知れないとも感じました。
この碑は群馬県高崎市吉井にある多胡碑(たごひ)、栃木県大田原市湯津上にある那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)と共に、日本三大古碑の一つである。
これで私は三碑を目に焼き付ける事が出来ました。
多賀城の発掘は昭和38に開始され、現在も尚発掘調査中の城跡である。
その都度毎にいろいろな発見があるようで、目が離せない遺跡でもあります。
出土した文献に寄ると、北上川は日高見川、今の栗原は伊治(これはり)等、読み方が似ているが当時の発音から都人が聞いた言葉に変えられているのか?それと時代を経て変わって来ているのか?と言った似たような地名が書かれているようだ。
以前1~2度訪れているのですが、小さい頃だった為記憶が定かでなく、丁度出張中でありながら休みが取れたので出かけて来ました。
ここにある多賀城碑は以前、文体が古風を模しているが「集字体」であったり、彫り方が近代の「箱彫り」と似ていた為、と碑文の内容にも官位・当時は渤海とされていた鞨国の文字、常陸国との距離の相違等、不明な部分があり、江戸時代に仙台藩が作った偽作説が浮上、昭和に入ってからの発掘調査により文献等の出土から文体の記述等より762年前後に彫られた碑である事が判明し、1998年に重要文化財に指定されている。
多賀城跡下の空地にも今年の震災の廃材がかなり積まれており、JR東北本線より海側の被害がかなりあったようである。
廃材に関しては見ていると涙が出てしまい、写真を撮るどころではありませんでした。
現在、ここを舞台に始まった「前九年後三年の役」を描いた高橋克彦氏著書の「炎立つ」(NHK大河ドラマでもやりました)を15年振り位で読み返して見ようと思い、仙台で購入して来ました。
ついでに、それ以前の蝦夷(えみし)の阿弖流為(あてるい)と坂上田村麻呂との激戦で奥六郡平定の舞台を描いた「火怨(かえん)」も読んでみる事に。。。こちらは現在発注中!