「目の前の真実を受け容れた時に覚悟が決まる」という体験は、日常の些細な事にしても、大きな出来事にしても、大なり小なり経験しながら生きています。
以前、紅葉で有名な京都の東福寺を春に訪れた際、「桜は植えない」お寺であることの先入観から、紅葉に紛れて咲いている桜の花を観ても「これは桜ではない・・・、いや、桜であってはならない・・・」と、思い込み、「桜ではないよね。。。」と、呟き合いながら散策したことを時々思い出します。
お坊さんに尋ねると、「住職が、抜いても抜いても生えてくる桜の芽に情が湧き、桜が可哀想だから、観念しましょう」ということで、勝手に生えてくる数本の桜を抜くことなく育てていることを答えてくださいました。
「紛れも無く、これは桜である」と、思った瞬間、私達は、何故か計り知れない安堵感を感じました。
「目の前の真実をありのままに受け容れること」と「生きるための条件」を一色単にすることで、目の前の真実が、歪められていく様を東日本大震災以来、見続けているように思うのです。
「真実を受け容れる」ことを、私達がどの土台で判断し、思考していくかを、よくよく考える時期が与えられているにも関わらず、それから逃げることによって、どんどん本質からずれているようにも見受けられます。
人間とは何か?
生命とは何か?
私は何のために生きているのか?
哲学的ともいえる思索は、実は私達にとって一番身近で切実な問題でもあるのです。
歴史の一コマに過ぎない自分の命をどう捉えるか。ヒンドゥの教えの通り、たった一粒の砂粒でも無数に集まれば何かが生まれます。
個々の繋がりは、やがて大河を生んでいくのです。
その大河の一粒である自分の役割を改めて考え、そして、歴史の一部である自分に誇りも持ちたいと思うのです。
真実を受容した時に覚悟が生まれるのです。覚悟が生まれるとということは自分の中に柱が一本立つということでもあるのです。
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お坊さんに尋ねると、「住職が、抜いても抜いても生えてくる桜の芽に情が湧き、桜が可哀想だから、観念しましょう」ということで、勝手に生えてくる数本の桜を抜くことなく育てていることを答えてくださいました。
「紛れも無く、これは桜である」と、思った瞬間、私達は、何故か計り知れない安堵感を感じました。
「目の前の真実をありのままに受け容れること」と「生きるための条件」を一色単にすることで、目の前の真実が、歪められていく様を東日本大震災以来、見続けているように思うのです。
「真実を受け容れる」ことを、私達がどの土台で判断し、思考していくかを、よくよく考える時期が与えられているにも関わらず、それから逃げることによって、どんどん本質からずれているようにも見受けられます。
人間とは何か?
生命とは何か?
私は何のために生きているのか?
哲学的ともいえる思索は、実は私達にとって一番身近で切実な問題でもあるのです。
歴史の一コマに過ぎない自分の命をどう捉えるか。ヒンドゥの教えの通り、たった一粒の砂粒でも無数に集まれば何かが生まれます。
個々の繋がりは、やがて大河を生んでいくのです。
その大河の一粒である自分の役割を改めて考え、そして、歴史の一部である自分に誇りも持ちたいと思うのです。
真実を受容した時に覚悟が生まれるのです。覚悟が生まれるとということは自分の中に柱が一本立つということでもあるのです。
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