五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

夏休み

2011年07月15日 | 第2章 五感と体感
そろそろ夏休みです。

試験の結果がわかり、一喜一憂の一週間であったことでしょう…

3月11日の大震災から4カ月が過ぎ、未だ行き先不明の原発の問題を抱え、横浜に住みながらもこの問題を考えると何となく浮足立った気分になります。

そうはいっても、諸々の影響を受けながら私達は生活し暮らしていかなくてはなりません。

私自身も、学校や講座が夏休みになるので、一カ月の間、表具の試験や作品展の掛け軸制作と能楽の発表会に気持と行動を集中することができそうです。

受験生の方々は、目標に向かって行動することとなりそうですが、受験から解放された1年生の方々は、軽やかに羽を伸ばすことができそうですね。

これから何をしようかな、何を目的にしようかな、と悩んでいるのならば、暇で暇で仕様が無い時間に委ねてみるのも良いかもしれません。暇なことに罪悪感を持ったって、そこから生まれるのは焦りや虚しさくらいのものです。
だったら、親が何を言おうと、「暇」な自分、「目標が何も思い浮かばない」自分に居直ってみることも将来にとって大切で尊い時間になるはずです。

古代の哲学者は、昼寝をしながら、散歩をしながら、「自分は何のために生きているのか?」を思索したそうです。
そして「自分の生き甲斐は何か?」「自分は魂と心と身体を大切にしているか?」それらの思索は、子供から大人までに共通する普遍的な自問自答なようです。

暇な時間は、哲学の時間であるかもしれません。

家の中でごろりと考えるのも良し。
普段歩かない近所を散歩するのも良し。
図書館で本の背表紙を見ながら自問自答するのも良し。
ふらりと日曜日の教会のミサに与ってみるのも良し。
お盆のお墓参りでご先祖様に手を合わせるのも良し。

湧き出す感情と自分が今していることは、何らかの形で繋がっているはずです。

だから、今、自分がしていることには意味がある、ってことを、少しだけ意識しておくと良いかもしれません。
そうすると、きっと、何かが見えてくると私は信じています。

今、していることは、今日明日のことだけに繋がるわけではありません。何年か後、もしくは、数十年後に繋がっていく可能性が充分にあるのです。

点と点が、長い期間の過程で繋がった時の喜びは、自分自身のアイデンティティの統合の瞬間でもあるはずです。

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瀬谷るみ子さんの講演会

2011年07月14日 | 第2章 五感と体感
私の関わる女子中高校にて、アフリカや中東などの紛争地帯での支援及び指導を行っている瀬谷るみ子さんの講演会が行われました。

もともと私のスーパーバイザーである心理学の師匠植村先生がNPO法人日本紛争予防センター(JCCP)の理事をしている関係で実現したという経緯があるため、JCCPの話題は常に身近なもので、テレビ等でも拝見していましたが、実際に瀬谷さんにお会いするのは初めてでした。

高校3年生の春、進路に悩んでいた時期に新聞でルワンダの瀕死の母と子供の写真を見たのがきっかけで、この仕事を目標にされたそうです。
日本の大学、留学し勉強しながら大学3年生の時には、人の伝手を頼りアフリカに。でも、その時の「あ~、私は何にもできないんだ…」という思いが意欲となったとおっしゃられていました。(これは、講演会では無く応接間での会話です)

講演会では、瀬谷さんの方向性を決めた一枚の写真から始まり、支援の様子を具体的に説明してくださり、見たままのことや活動を解りやすく語る瀬谷さんに、身の丈に合った無理のない言葉に宿る「力」を感じました。
淡々と語られる中、実は途方もない努力と行為ではないかということにふと気付き、返って私自身にイメージが湧きあがりました。

中学生から高校生、6学年の女生徒の皆さんにどんな想いが湧きあがったかはわかりませんが、大震災を経験し、今日生きていくのがやっとのことで、今、命が与えられていることは奇跡だと思う気持ちが以前よりは感じることもあるかもしれません。そして、世界のどこかに、未だに紛争地帯があり、「明日を暮らすことに希望が持てないでいる人」の存在を知ることだけでも、将来、自分自身の何かに繋がっていく一つのエッセンスであって欲しいと、願っています。

見聞を広げるということは、自分のキャパシティーを増やすことと同じです。

大志を抱くことだけが、目標設定ではありません。

生きていく過程で、多くの機会において、選択肢で悩み、決断していく経験をしている私達に、一度立ち止まり自己を吟味する機会を与えてくださった瀬谷さんに心から感謝いたします。

瀬谷さんが、私の話を聴いてくださっているとき、まるで吸い取り紙のように丁寧に感情をも受容している感覚を感じました。世界中の紛争地帯の人々が瀬谷さんに感じ取っている感覚は、ひょっとしたらこれかもしれない…と、思いました。

お話したときに、そのような感覚になる方には、そうそう出会えないかもしれません。

出会いに感謝いたします。

某女子校の保護者の皆様も、生徒さんたちがこのような講演会を聞いたことを私のブログを通して知って頂けると有難いです。

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落ち武者の祖先かも…

2011年07月13日 | 第2章 五感と体感
新平家物語を読むにつれ、ブログのネタにしたいと思う情動が沸々と湧いてきます。

保元の乱を皮切りに、戦い方が変わってきます。

敵と味方のそれぞれの大将は、互いの名乗りを上げながら相手との戦い方を変えていったりするところが、なんとも人情的で面白いのです。

源氏に平氏、藤原の各々の家族の中で敵と味方になり、負け組の最後は、読むに堪えない悲しい結末です。
主要な人物は、落ち延びることは出来ずに、敵方に捉えられ斬首されていきます。
敵となった叔父や従兄弟を三条河原で自らの手で切る平清盛。
父や親戚を何とか逃がしたいと願いながらも冷徹極まりない信西入道によって殺されていくのが源義朝。

京都を囲む山々や吉野あたりの山々、越後や関東、東北に逃げ、落ち延びた先で百姓になり、自己のアイデンティティを伝承していく家臣の武者達…

我が家でも父は、清和源氏の子孫であることを信じながら暮らしています。平氏か源氏かを自分の正中線に据えておくことで、ピリッとした柱が自分に根付いていくことが、自分の誇りに繋がるのかもしれません。
落ち延びた先で定着し家族を持ちながら次世代へ伝承していくことが、伝説となり、風習となり、現在に生きる私達を生かしていることは、大袈裟なことではないはずです。

落ち延びた先で、寿命が尽きてしまうか、生き延びていくか、それこそ大きな違いです。

何としてでも生き延びて行く覚悟が、その後の生きる力を育んでいくはずです。

戦いに負け、夜の山を彷徨う落ち武者が、ひとり、またひとり、それぞれの岐路で別れていく描写を読みながら、「どうぞ、御無事で…」と真に祈るのは、現代に生きる私達がひょっとしたら、彼らの子孫かもしれないと、潜在的に思う気持ちがあるからかもしれません。

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「平家物語」と日本人

2011年07月12日 | 第2章 五感と体感
平家物語を読み進むに従い、自分にとっての真実と判断が、生死を分けていくことに、色々と考えさせられています。

自分の下した判断が命取りになったとしても、最期は自分の今を受け容れて死んでいく武将が沢山描かれています。

負けることをいかに解釈するかの日本人の原型が平家物語から読み取ることができ、今までピンとこなかった「もののあわれ」が、なんとなくですが、自分にとって身近な感覚なのだということに気付きだしています。

勝つことよりも、負けることに意味を感じさせようとするのは、この「もののあわれ」という日本人のアイデンティティに深く繋がっているように思います。
昨年あたりにイギリスの歴史小説「大聖堂」を読んだのですが、平家物語を比較考察すると、勝つことと負けることの中にそれぞれの違いが見出されてくるのです。

勿論、それぞれの小説は、それぞれの国のアイデンティティの中から生まれているものです。文体も、登場人物の心理描写からもお国柄が赤裸々に表現され、読み手の私のアイデンティティにおいて読書し感じ取っているわけです。

現在の日本の政治についても、奈良時代からの政権争いから考察していくと、現況を今更憂うこともない。。。と思ったりもします。

「悪」とか「負」という概念は、限りなくうやむやで、それよりもそのときそのときの政権に対しての謀反とか反逆に気を取られていくアイデンティティを育んできた日本は、ヘンだヘンだと呟きながらも、その流れの中で多くを主張しないことで生き延びてきた民族でもあるように私の目に見えてきました。
それが、日本人の生き延びる力だとしたら、このアイデンティティをどう利用していくかを考えたほうが健全かもしれません。

「日本人が日本人自身を憂いでいること」自体が日本人のアイデンティティであることをそろそろ受容する時期にきているかもしれません。

そんな思いで平家物語を読んでいくとあっという間に16巻を制覇できるのでは…(@@;)

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私は私である「ロージャーズの19の命題」

2011年07月11日 | 第2章 五感と体感
三日間の勉強会が無事終わり、梅雨明けした炎天下の中、皆さんと別れしました。

年に一度、「カールロジャーズ,パースナリティ理論19の命題」を自己にあてはめながら、体得を目指す勉強会を行っています。

一見、難しい理論のように思われがちですが、個人の行動、思考、感情に基づき、人間の成長の可能性を信じることで、個人を尊敬し、尊重していくことから、体感的に理解していくことのできる理論であると私は解釈しています。

あるがままの自分を主張するための理論ではありません。

あるがままの自分を受容していくことによって、あるがままの他者を自然と受容していく過程を理論化しているものです。
自己に表れる現象(考え方、諸々の環境によって学習されてきたこと、感情、行動)意識化し、それらの意味をその時その時の自己のレベルで解釈していくことによって、なんらかの気付きが得られ、自ずから現在の自己を受容していく…。
、そのような内容の理論を「19の命題」にまとめ、簡潔に書かれてあるのです。

その命題19の最初、命題1が、「私は私である」というわけです。

「私」は、私自身の経験の世界に生きていて、その経験は、私自身にとってリアリティ、つまり、私自身が見えているもの、体験しているものは、他者に何を言われようと私にとっての真実なわけです。

たとえば、他人から「あなたは器用な人ね」と指摘されても、「私はほんとうに不器用だ」と思っていたとしたら、それが私にとっての真実なのです。
「では、なぜ、自分は不器用だと自分を解釈してるのだろう…」という問いかけから、この学問の学習が始まっていくのです。

19の命題に関しての自己事例は、折りに触れ、書いていこうと思います。

身体の癖にしても、太極拳を習い始め、実に自分が大地に足を踏み入れていなかったかが解ってきました。
自分では、自分の立ち方が真実だと思っているわけで、他者との違いで学ぶ余裕などありません。でも、少しずつ続けて行くことで、自分の立ち方がヘンだと思うようになり(学問的に言えば、現象に対しての知覚によって、不一致が起こり、それに対しての比較考察が始まり、軌道修正しようとする情動が湧きあがる。)そして、徐々に自分の何がヘンなのかが自ずから受容できるようになってくると、自然な形で修正していくことができるようになってきます。
これも、他者から言われたところで、自分の真実を無理やり変えることはできません。自らの気付きが自らを変えていくのです。

心理学を学ぶ者にとって、他者を指摘し分析することは大きな勘違いの始まりと言えるかもしれません。ともかく他者のことよりも自分自身の成育史を素直に見つめることから、この学びに真摯に取り組んでいきたいものです。

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湧き出す感情には意味がある

2011年07月09日 | 第2章 五感と体感
二泊三日の勉強会、2日目です。

カールロジャーズの19の命題を時間をかけてゆっくりと取り組んでいます。

他人が何と言おうと、何を指摘されようと、私に見えていること、私が感じていることが自分にとっての真実です。

では、何故、自分の目の前に起こる現象の解釈をこのように解釈しているのでしょう。
自分の防衛機制の傾向は、どこから生まれてくるのでしょう。
自分は、どんな条件が整うと、防衛機制が外れて、もっと楽になれるのでしょう。
自分の個性を何故、認められないのでしょう。

そんなテーマを心の内に意識しながら、ロジャーズの勉強をしていくと、自分の思考と感情と行動の傾向が段々と意識化されてくるかもしれません。
意識化される、受容する、ということは、どういうことなのでしょう…

勉強会二日目の展開を楽しみに過ごしたいと思います。

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感謝の言葉が伝えられない

2011年07月08日 | 第2章 五感と体感
自ら感謝の言葉が伝えられない人に時々出会います。

でも、その前に自分はちゃんと感謝の言葉を伝えるべき相手に伝えているでしょうか?

相手にばかり求めて、自分が感謝の言葉を怠っていたとしたら、なぜ、自然体に伝えられないのでしょう。

他者に求める前に、自分の点検をしたいものです。

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言いにくい人

2011年07月07日 | 第2章 五感と体感

「写真は京都・大徳寺」

あなたと私の関係において、

気楽に相手への私自身の所感を伝えやすい人がいれば、伝える言葉を閉ざしたくなる人もいます。

相手に対して私の気持を直に伝えたいと思わない場合、

「あんなこと言ってるけど、ほんとはどうなのかなぁ~」とか、
「強気でそんなこと言ってるけど、そこに立ちふさがる防衛機制って、一体何なんだろう…」とか、
「そんなことを言えば、皆が、不快な気持になるのが、わからないのかな?」とか、
「そのうち、周りから人が去って行っちゃうよ…」等、

相手に言ったばかりに逆切れされ、その人自身の防衛機制による逆襲によって自分の心を痛めつけられるのも嫌です。そのうち、いつか必ず相殺する時期が来るんだろうな、、、という、私自身冷やかな思いが湧いてくることで、自分の感情を押しとどめることも多いような気がします。

相手の言動と行動が、ヘンだな、と思うのは当然のことで、自分の解釈が悪いわけではありません。

だから、自分の湧いてきた感情は、言う言わないは別にして、ちゃんと意識化しておいたほうが良いようです。

あなたと私は違うのですから。

あなたと私は違うからゆえ、自分の言動に気をつけることを心がけたいものです。

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無形文化遺産

2011年07月06日 | 第2章 五感と体感
日本の食文化が無形文化遺産になったら喜ばしい事です。

季節毎の料理と盛り付け。
器の選び方。
配膳の心遣い。

それだけでは無く、頂くための部屋のしつらえ。

床に飾る掛け軸、花、花器。

部屋から障子を通して見える庭の風景。

想像しただけでも、夏の暑さが吹き飛ぶ「涼」を感じます。

もてなす側は、食事を頂く客の背景をも考えていきます。

つまり、おもてなしの文化が、日本の食文化に繋がるわけです。

平家物語の中に、崇徳天皇の屋敷の水辺「柳の水」を守る「麻鳥」という名の者が登場します。
崇徳天皇が毎日水辺にいらっしゃるわけではありませんが、いついらしても良いように柳の水を整え、畏まって仕えています。しつらえは、味をも変えるのです。そのための準備は並々ならぬものです。
水辺の草を取り、川底を洗い、清い水をいつも新鮮に保ち、崇徳天皇がいつなんどき訪れても良いよう彼自身も姿形も整えてお待ちします。忘れたころに訪れる崇徳天皇へのおもてなしが彼の喜びです。

日本の文化は、公家文化をお手本に今や庶民に受け継がれています。

食文化は、日本人のアイデンティティそのものです。

繊細な心遣いは、物作りに表れます。

食文化の無形文化遺産登録申請は、日本の伝統を受け継ぐあらゆる物作り職人にとって、希望を持つことができそうです。

表装文化もその中の一つ。

客を迎えるため、しつらえるために手間を掛け、その時間を楽しむのが日本の文化そのもののように思っています。

この夏は、簾からそよぐ風を受けつつ、凛としたしつらえを心がけながら涼しい気分を保ちたいものです。
…いや、気持だけでも…(^^;)

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表装文化

2011年07月04日 | 第2章 五感と体感
地球が誕生して、人類が誕生し移動し、地層のように歴史が重なり、今に至っています。
勿論、この「今」も歴史の地層の過程に過ぎません。

それを云えば、古来の伝統等というものが、歴史の地層として埋まっていくのも仕様が無い事かもしれません。
そうはいっても、便利さを追求していくために活動する傾向を止めることのできない人間は、どこまで何を追及していくのだろう、、、と、思ったりもします。

手漉きの和紙が、機械漉きとなり、
使用する道具も、鉄や木からプラスチックやステンレスになり、
小麦粉のでんぷんから作る正麩糊も科学糊が正当となってきています。

そうはいっても、私の師匠は、正麩糊を大切にし、科学糊を使わずに表装することにこだわり続けています。
そのような考え方に賛同している弟子達が、長きにわたって表装を続けています。

日本の文化財修復も、いよいよ科学糊が入り込んできたようですが、さて、これが後世に残せるものかというと、誰も確信は持てないそうです。

先日、日本古来から伝わる膠製造が絶滅宣言がありました。私達が普段使う膠は、すべて中国製です。
伝統工芸といわれているもので膠が必要ないというものは、少ないと思います。勿論、表装でも使う必要のある物です。

そろそろ、職人がもっと表に出て、知識を広く知らせるべく語る時期が来ているのではないでしょうか。

学問として語る学者ではなく、現場で働く人々の語りは、頭だけの世界で語るものではないはずです。

表装文化は、日本の伝統文化の宝物です。その伝統を古来からの道具や材料を使い守ることは、そう生易しいものではありませんが、出来る人から努力していかなくては、もう間に合わないかもしれません。

知は力なり…

知らない人でも、ひとたび知れば、問題意識も生まれます。

一部の少数派が危機感を持つだけでなく、もう少し外に広げて啓蒙活動するのも仕事の一つのように思います。

これから、真剣に頭を巡らすとしますか。

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暮らしの内容

2011年07月03日 | 第2章 五感と体感
奈良時代のサラリーマンは、日の出前に起き、会社を目指して1、2時間歩くのは当たり前だったそうです。
その分、お昼を少し過ぎたら仕事は終わり、日の入りが過ぎたあたりには就寝時間。

食事は、お偉い方でも1日2食。この習慣は近年まで続いていたようです。

私達の祖先は、そのような生活をして命を繋いできたわけです。

とはいえ、電気のある生活が当たり前になっている時代に生まれた私達は、そのような生活に完全に戻るわけにはいきません。

ただ、奈良時代、平安時代の記述を読んでいると、時間と時間の隙間がそれほど無いのでは、と思うようになります。

人は、生まれてから、食べて、生活のために学び、働いて、休んで、寝て、起きての行為を繰り返しているわけです。
ただ、時代によって、それらの行為の内容が違うだけなのです。

たった一日で沖縄や北海道を日帰りで往復できる時代は、1時間で1里が精一杯の歩く時代に住んでいた人々にとってみたら、夢にも思わないことでしょう。
でも、よくよく考えてみると生活サイクルの行為はそんなに変わらないわけです。

寝て、起きて、食べて、働いて、食べて、寝て…

嬉しかったら、喜び、
悲しかったら、悲しみ、、、生活だけではありません。湧き出す感情は、もっともっと普遍的なものなわけです。

節電をせざる得ない中、これらの普遍的なこととシンプルな生活を今一度返りみて、自分にとって本当に必要なことだけを選択できるセンスを身につけていきたいものだと、思うのです。

私にとっては、よき機会です。
自分の暮らしの内容を点検しつつ、もう少し自分の歩みに合わせてみようと思います。

猛暑の夏の過ごし方にも繋がっていくかもしれません。

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天国からのいたずら

2011年07月02日 | 第2章 五感と体感
私が関わっている某修道会の敷地に25年前、船で日本にたどり着いたベトナム難民の○さんがご家族で住んでいます。

奥さんの○さんは、私よりもちょっと年下なのですが、お肌がつるつるで、活き活きとしたお顔をしていらっしゃいます。彼女の笑顔が美しく、ついつい立ち話に花が咲いてしまいます。

先日、彼女の家の前を通ると、藪の中でゴソゴソという音が聞こえてきました。何かと思ってそちらを見ると、○さんが藪の中から手を振っています。生えてきた細い筍を今晩のおかずにしようと切っているとのこと。

「うわっ!なんて、美味しそうな!どんな料理になるんでしょうね!楽しみ!」と私が言うと、「今度、持っていくね」とにこやかに返してくださいました。

そして、数日後、やってきましたベトナムのおそうざい!
筍が柔らかくゆでられベトナムの調味料で味付けされています。

これがまた、美味しいのなんのって!

これが6月30日のことです。

○さんは、この修道会に定期的にいらっしゃるベトナム人の神父さんととても親しくしていらっしゃいます。
その神父さんは、私が兄のように慕っていたヒロさん(神父さん)の秘蔵っ子でした。日本語が全くできない状態で日本にやってきて、ヒロさんが赴任していた教会に住み、切磋琢磨しながら日本語を学んでいかれました。そして、神学校に入り、昨年めでたく神父さんになりました。

これも、偶然のことではないだろうな。。。と、思っているのですが、その神父さんが、昨年叙階したと同時に、私が関わる修道会の学校に定期的にいらしているのです。

私達にとって兄のようなヒロさんは、4年前、赴任先のブラジルに帰る途中、ニューヨークで持病が悪化し亡くなりました。日本時間で7月1日のことです。

天国から、また彼の楽しいいたずらをされたような、楽しい気分で命日を過ごし、今日は彼が立ちあげたインド少数民族のための奨学金の会の集まりに参加します。

人は亡くなっても、遺された人の思いがその人との関係性を繋げていきますし、年月が経つにつれて亡くなった方の魂は、私の身体の中に「在る」ということの知覚として確かに感じ、大きくなっていくように感じます。

兎にも角にも、ヒロさんのいたずらを今年も感じ、今日は、会の皆さんと泣いたり笑ったりしてきたいと思います。

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不安感と悩み

2011年07月01日 | 第2章 五感と体感
どんな「不安感」の感情なのか。
これが、自分自身で知覚し出したら、次は自分の「悩み」に取り組んでいきます。

不安感と悩みは、少々違うように思います。

自分の悩みを言語化しても、それが本当の悩みかどうかは、自分の不安感をあぶり出していかないと解らないケースがあるように思っています。

同じ悩みを訴え続け、それがいつも同じような内容だとしたら、その悩みから表出する感情って、一体何なのでしょう。

悲しい…
イライラする…
焦り…
怖い…

では、いったい、それらの感情に相対する理想の領域って、何なのでしょう。

人間関係を上手くしたい…
言いたい事を言いたい…
テストの点数を上げなくてはならない…
毎日、会社や学校に行かなくてはならない…

理想と現実の感情のギャップが、大きく離れている場合、不安な感情はますます大きくなっていきます。

そんな時、理想の領域の部分を、一旦忘れて、自分の感情だけ、不安感にだけ焦点を当ててみると、今まで感じていた不安感とは違う不安感が表出してくることがあるようです。

そこで、改めて、今までとは違う不安感に相対する理想を考えてみると、今までの理想とは違うものが表出されてくることに気付いたりします。

つまり、悩みだと思っていたことが、本音の感情を見据えることによって、もっと核心に近い悩みが表れてくる場合があったりするわけです。

「核心に近い悩み」は、多分湧き出す感情によって自然と導き出されてくるようです。

ぐるぐると同じ悩みが繰り返されているとき、きっとそれは、その人にとって今必要な現象なのだと思います。
同じ悩みを繰り返すことによって生き延びている現実があるからです。
でも、ある日、それをほんとうにどうにかしたい、と思った時、改めて自分の理想と現実のギャップを考察することが出来るようになるように思います。

答えは自分の内にあるのです。人を頼っても答えは生み出されませんが、否定も肯定もせず聴いてくれる誰かが傍に居たら、いつの日か自分の箍(たが)が外れて、自分自身と向き合うことに恐れが無くなっていくことが、解決の糸口になっていくのでは…。

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