都内の超低山巡り&富士塚探しをして帰った夜、レポを書いているうちに富士塚に俄然興味が湧いてきた私。
翌日も遠出はできないので、もういっちょ!と他の富士塚も見たくなり出かけることにした。
2013.2.10(日)スーパー快晴。どうして私が山に行けない日は晴れるんだ・・・(ノД`)・゜・。
リハビリだから仕方ない。開き直って我が家から一番近そうな富士塚を求めてみることにした。
今日はちょっと目的地が離れているので、昔ながらの紙の地図を持って自転車で廻る。
初めての場所でもわりとすんなり見つけることが出来たのがここ
”月見岡八幡神社”
境内の裏にその富士はあった。
門を開けてそろりそろり中に入ると、早速可愛らしい顔をした母子猿が迎えてくれた。
・・・さて、夢中になると知りたいところまで調べないと落ち着かない私。
富士塚を楽しむ上ではずせないルールがあることを知ったので、私なりにポイントをまとめてみました。
【富士塚のみどころ】(ご存知の方はスルーしてください)
富士塚のてっぺんに立つ祠が富士山頂で言うところの浅間神社「奥宮」
他のアイテムが無くても最低限これだけはあるはずだが、祠の代わりに石碑の場合もあり。
中腹の祠は富士山5合目にある「小御嶽神社」の分祀。富士山が今の形になる遥か昔、
小御嶽火山が噴火したので富士山の土台とも言える地は聖地とされている。
小御嶽神社に祀られている天狗とセットで作られていることが多いらしい。
富士山の8合目にある巨岩を表す”烏帽子岩”ミニチュア化したものや石碑がある。
烏帽子岩は食行身禄が31日間の断食をした場所なので、身禄を讃えてのこと。
富士塚下部に狭い穴があったら「胎内」
いわゆる胎内くぐり=生まれ変わる為の修行。
という四つの要素のほかに・・・
「亀岩」富士山8合目に亀の形をした巨岩があり、
岩の一部から水が沸いたことにより霊水として信仰の対象になったもの。
リアルな亀だけでなく色々表現方法があるらしい。
「猿」富士山が一夜にして出来たという伝説の年が申年だった、
ということで猿は神の使いとしての信仰上最強のキャラ。
「碑」冨士講の講碑、江戸八百八講と言われるほどあるそうだ。
・・・といったように富士塚構造には信仰物としての基本的ルールがあって、成り立っているそうです。
「冨士講」と言うのは地域単位の富士信仰サークル。
そういう視点で見てみると、なるほど、どんどん面白くなってくるではないですか
さて本題に戻ります。
いましたいました、基本ルールの
ところがこの天狗様、上から見ると凛々しいのですが・・・・
傍に寄ってみると、なんだか自慢の鼻が下向きに”だらん”と自信なさげな感じで・・・
こんな人、私の近くにもいるよなぁ・・・
気を取り直し山頂を目指します。急登の先にはなぜか柚子の木?実がなっていました。
山頂の祠が見えてきたら・・・
こちらが”上落合富士”高さ約4mであります。
山頂は人ひとりやっと立てる程度で、引いて撮ってもこれしか入りませんでした。
すぐ傍に民家の屋根。だいたい2階の高さと一緒くらい。
山頂からの眺め。境内の屋根が・・・同じくらいの高さで見えました。
小御嶽神社を挟み、大小の天狗様もいました。新しいものの感じ?
どことなく・・・ナンチャン風な表情が親近感を覚えてしまいますw
”上落合富士”全貌です。全貌と言っても神社の角地の壁面に作られた物なので、カメラではここまで。
ここ新宿区の上落合は古墳の多い土地で、当初この上落合富士は古墳(円墳)を利用して造られたものだった。
昭和二年にこの神社境内に移され、スペースの都合上かつての丸い富士塚は無くなり、現在の壁面富士となった。
壁面であっても富士山を思わせるその姿は、富士山への愛と作り手の技の賜物ではないでしょうか・・・。
《新宿区上落合1-26-19》
※参考:有坂 蓉子 ”富士塚ゆる散歩”
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せっかく落合まで来たのだから、その先の山の手超低山を目指しましょう~。
目白通りを直進し、西武線の線路と平行に走り・・・坂を上ると・・・
ここが何度か通ったことのあった「おとめ山」公園。自然が残る園内を進むと、東屋がありました。
(※落合にある「カラファテ」というBC&クライミングSHOPの近くです。(パタゴニア目白店B1))
「御留山 標高33m」見晴台に上ればなかなかすがすがしい風が吹き・・・
ニャン子達がくつろぐ、居心地の良いお山。
山裾には水が流れ・・・公園の池、と言ってしまえばそれまでですが、
なかなか自然溢れる造りなのでした。
それもそのはず、ここは昔から”湧き水”の湧く土地で、今でも何箇所かで湧き、
「東京都の名湧水57選」に選定されているそうです。
ここ「おとめ山」は乙女ではなく、「御留山」または「御禁止山」といいます。
昔からこの辺りは鳥や獣の狩猟の地で、江戸城を築城した室町時代の太田道灌が狩りに来た、
という山吹伝説。江戸時代になるとここは、将軍の狩場だったから一般人は狩猟禁止。
そこで「御留山」「御禁止山」といわれるようになったそうです。
明治以降、この一体は華族の所有となり、二つの大きな屋敷が出来ました。
東が近衛家、西が相馬家。相馬家は”相馬馬追い”で知られる福島相馬地方の殿様の家です。
標高約33mの御留山。ただの公園あらず。
もうひとつの目で見なければ気づかなかった、都内の由緒あるお山でありました。
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最後の目的地は西早稲田。ここにも「富士塚」があるとのことでもう一走り
新宿区西早稲田にある”水稲荷神社”
稲荷、といえば朱い鳥居と神使の白い狐がシンボル。
たくさんの狐が祀られておりましたが、目的の富士塚が見当たらない・・・
裏に廻っても古墳跡しかない・・・
神社内をキョロキョロする怪しいオトナ2名。
あまり詳細に調べてこなかったので仕方ない、と諦めて外に出ると・・・
物置小屋(失礼)のような場所の奥に・・・あったー登山口。
でも門は鍵がかかって入れません、外から眺めただけでしたが・・・
ここが富士塚第1号、江戸で最古にして最大の富士塚、
各地の富士講が模倣したという「高田富士」登山口でありました。
この「高田富士」は食行身禄(じきぎょうみろく)の死後、弟子の高田藤四郎の総指揮のもと、
講員総動員で戸塚村(現在の西早稲田1丁目)に完成させたのが1779年頃。
もともと台地にあったのと、その高さも10mもあったため景色もよく、
「高田に二つの富士が見える」と川柳に詠まれたほどだったとか。
ですがこの高田富士、昭和40年まで残っていましたが、早稲田大学がこの土地を買収、
あっけなくブルドーザーで潰されてしまったそうです。
ところが富士講のパワーたるものはそんな事ぐらいでは凹まない、
その後、すぐに移転した水稲荷神社に富士山が作られたそうです。
・・・とそこまでは調べていったものの、いつでも見れると勘違い(私らしい・・・)。
なんとこの富士塚は、現在「高田富士祭り」が開催される7月20日頃1~2日間しか登頂できないらしいのです。
あ~あ
神社脇の甘泉公園から金網越しに覗いて見ると・・・手すりのようなものは見えるが山頂までは解らず。
(境内で発見!)
残念ながら高田富士の全貌と、私が見たい四つの要素は見られない。
見られない、となると余計にこの目で確かめるまで気がすまない面倒な性格。
きっと・・・いつか・・・確認しに行くんだろうなぁ・・・。
《新宿区西早稲田3丁目5-43》
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歴史にめっぽう疎い私。
仏像は好き。神社仏閣もキライじゃないけど感じる所は人とちょっと違うみたいだし、
歴史オンチなので時代背景等、知識がないからそれほどはまるような事は今までなかった。
だけど不思議なことに東京の街中にも「山」がある、という角度から見たら、あ~ら不思議?
特に富士塚には興味がどんどん湧いてくるし、次々知りたいし、なにより楽しい。
神社仏閣は自分のレベルではなかったけど、「富士塚」は江戸の庶民の目線で造られたものだから、
自分も同じ東京に生まれた育った庶民、という共通点がワクワクさせてくれているのかもしれない。
街の片隅にある、今まで気づかず通り過ぎていた「富士塚」たち。
この富士塚を見ている自分と江戸の人々の時を越えた不思議な繋がりを感じる。
日本人がはるか昔から持っていた富士山への愛と親しみは今も変らない、
今更ながらなんだかとても感慨深いものがありました。
またきっと、チャンスがあれば次の富士塚探してバーチャル登山に出かけると思います。
おしまい。