Mr.Dashのぶろぐ館

奈良・大阪・日本アルプスの山々が大好きな、Mr.Dashのブログです。

2016年4月5日(火) [山城三十山]京都北山・魚谷山へ、今西錦司先生の足跡をたどる

2016年04月06日 | 山登りの記録
■メイン写真
魚谷山山頂直下から、タムシバが咲く尾根を見下ろす


■今回のコース
出合橋⇒松尾谷分岐(駐車)→魚谷峠→魚谷山→柳谷峠→北山荘→今西錦司レリーフ→
麗杉荘→直谷山荘跡→松尾谷分岐⇒出合橋


中学時代によく通った京都北山の直谷。登り詰めた先が、魚谷山である。
いつしか足が遠のいてしまったが、調べてみたら高校時代の1985年以来、
じつに31年ぶりの登頂であった。



出合橋。かつては京都バスが通っていて、ここで降りたものだ。
今は小型のコミュニティバスがわずかに通るのみである。



松尾谷分岐。ここで路肩に駐車。
今西錦司レリーフや、懐かしい直谷への逸る心を抑え、今日は左の林道から、
まず魚谷山をめざす。



魚谷峠まではずっと林道歩きだ。
時折、周辺の尾根・斜面が見通せるが、点在するタムシバの群落がちょうど満開。
桜もいいが、なかなか珍しい花見ができた。



魚谷峠は、林道が通り抜けたことで、現在は6差路になっている。
すぐ右の尾根道へ、鋭角に折り返す。やっと山道になる。



なんなく、魚谷山に到着。アセビ群落の中に三等三角点が埋まる。
アセビも満開だ。



柳谷峠から、落ち葉が積もる谷筋を下る。



細ヶ谷付近は、クリンソウの群落で知られるが、もちろん花期にはまだ早い。



北山荘に立ち寄り、小屋の前でランチタイム。
手入れが行き届いた、すばらしい小屋だ。

北山荘は、もとは1927年に西堀栄三郎先生(第一次南極観測隊越冬隊長)や
今西錦司先生が建て、1942年、老朽化のため、建て替えられたという。



今西錦司レリーフ。
本日、同行頂いた梅棹先生に非常に近しいM原さんから、インサイダーしか
知り得ない貴重な情報をうかがえた。

これの除幕式(1994年6月)のとき、盲目をおして、スタッフの万全の介助のもと、
ゴム長靴を履いて歩いてこられた梅棹忠夫先生(国立民族学博物館初代館長)は、
今西レリーフのアゴの部分を撫でておられたという。

なお、レリーフの場所は、先代北山荘があった場所だという。



レリーフのすぐ奥には、今西先生の還暦祝いに山仲間がプレゼントした
一等三角点のレプリカがある。本物そっくりで驚かされる。
どうやら、もとは京都市内の今西先生邸にあり、その後、ここに移されたようだ。

レリーフの数十mほど下流側に、「北山の小舎」発祥の地の立札がある。
この立札に、「雪山賛歌」に謳われている「煙い小舎」とはこの小舎のことであると
書かれているが、これには事実検証が必要なようだ。

というのは、「雪山賛歌」の詞は、西堀先生らが1927年に京都帝國大学山岳部メンバーと
群馬県の鹿沢温泉で大雪のため沈殿を余儀なくされた時に、暇つぶしに作られ、
「いとしのクレメンタイン」のメロディーに乗せられたもので、「煙い小舎」は
滞在していた鹿沢温泉のことであるはずという話もあるのだ。
「雪山賛歌」の歌詞は、低山である京都北山を歌っているとは到底思えないだけに、
立札に書かれている説の起源も知りたい。



綺麗な流れを見ながら、何度も渡渉を繰り返す。
最後はゆらゆら揺れる丸木橋を渡って直谷の林道に出た。
ここからまた林道歩きだ。



麗杉荘。屋根も破れ、荒れ放題になっている。
「北山の父」森本次男先生が1935年に建てられたものだが、今や維持するのは
難しいのか。



子供の頃、飯盒炊爨をしたり、横で釣りをする仲間もいた想い出の
直谷山荘に至っては、もはや、がれきの山。
ネットで調べる限りでは、2009年までは崩壊しながらも、まだ形は失われては
いなかったようで、2009年の年末あたりから2010年頃前半までにペシャッと
いったのではないかと予想。

舗装林道は退屈するかと思ったが、渓流のきれいな流れや、巨岩に岩を
張った苔むした老木や、路傍の花などを見ているうちに駐車地に戻った。



路傍に咲くヤマルリソウ。



数は少ないが、ミヤマキケマンも見られた。

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