今回は、「待合室」に第333回として2009年10月19日から26日まで掲載した記事の再掲載です。内容は、一部を修正しましたが、基本的に当時のままですので、御注意ください。
唐津城址、とくに天守閣からは、唐津市街、そして海がよく見えます。天守閣内では撮影禁止となっていますので、 残念ながら中の展示物などを紹介することはできません。
そこで、天守閣の外から、まずは海を撮影しました。あちらこちらに島が浮かび、よい風景です。
これは、唐津城址から北あるいは北東のほうを眺め、撮影したものです。ちょうど雲が多くなった時なので、少し暗くなっています。
再び高島です。台形のような、子どもが公園の砂場で作る山のような、面白い形をしています。
方向をずらして、海そのものを撮影しました。奥のほうに見えるのはどこでしょうか。 福岡県の糸島半島でしょうか。私が滞在している福岡市は、唐津市からかなり離れています。
さて、これから天守閣に入ろうと思うのですが、入り口の所に歴代の城主を示した年表がありました。 初代は寺沢家で2代52年間、1599年に豊臣秀吉から拝領したとのことですが、1647年に改易されています。この年に唐津は公領、言い換えれば天領となりました。以後、大久保家、松平家、土井家、水野家、小笠原家と城主が変わります。その中には水野忠邦の名前もあります。忠邦は1794年に生まれ、1817年まで唐津藩主の地位にありました。その後、浜松藩主として転封され、後に大坂城代、京都所司代を歴任します。老中となって1841年から1843年まで天保の改革を断行したことは有名です。しかし、この改革は失敗し、忠邦は失脚しました。そればかりでなく、江戸幕府は混迷と危機の度合いを深めていきます。
久しぶりに猫を撮影しました。白猫です。
それにしても、何故かはわからないのですが、城址など、公園には必ず猫がいるものです。住み着いているのでしょうか。
この猫には首輪がありませんので、 飼い猫ではないようです。やはり、城址かその近所に棲んでいるのでしょう。いったい何をしているのでしょうか。
城址の南側に斎藤茂吉の歌碑があります。彼は医師であり、歌人でもありました。松浦川は唐津城址の下のほうを流れる川で、武雄市に発し、伊万里市を通り、唐津湾に注ぐ一級河川です。
茂吉の歌碑の左隣にある説明です。
唐津城址を見終わり、唐津駅まで歩きました。これから、滞在先の福岡市に戻ります。筑肥線に乗ればよいのですが、福岡空港まで走る6両編成(姪浜まで車掌も乗務)と、 筑前前原まで走る3両編成(ワンマン)の双方があります。私が乗ったのは筑前前原行です。筑前前原で福岡空港行に乗り換えることができますので、これに乗ることとします。
上の電車は103系1500番台です。103系は国鉄時代に製造された車両としては最大の両数で、首都圏や京阪神でお馴染みでしたが、既に首都圏では見られなくなっています。元々は非貫通車ですが、常磐線と営団千代田線を走った1000番台、中央線・総武線と営団東西線を走った1200番台などは地下鉄線内を走るために貫通扉が付けられていました。九州では筑肥線しか走っていない103系1500番台にも貫通扉がついています。
ちなみに、JR九州の路線のうち、電車が走る鹿児島本線、日豊本線、長崎本線など大部分の路線は交流で電化されており、直流1500Vで電化されているのは筑肥線の姪浜~唐津および唐津線の唐津~西唐津だけです。これは福岡市営地下鉄空港線と相互乗り入れを行うためです。
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