昨日(2022年3月16日)の夜に発生した地震には驚きました。東北地方などに多くの被害が生じたようです。東北新幹線の脱線の状況を動画や写真で見た時には……。
さて、今日の朝日新聞朝刊10面13版Sに掲載された「経済気象台」の話です。「オンデマンド文化を超えて」と題された記事ですが、読んでみて、僅かながら違和感を覚えました。いや、僅かながらとは言えないかもしれません。
「海星」氏は、「コロナ禍で大学の対面授業がオンラインに切り替えられた当初は、教員・学生とも早く対面に戻りたいという声が強かった」としつつ、「コロナ禍が2年以上も続き、対面受業を希望する声は明らかに弱まっていると感じる。教員・学生とも、実はオンデマンド授業の方が楽だと気づいてしまったからだ」と書かれています。
ここに私は違和感を覚えました。
まず、「海星」氏は教員、学生の誰もが「楽だと気付いてしまった」という意味を込めたのでしょう。そうであるとするならば、違います。誰もが、ということであれば、1人でも異なる意見を示すことによって前提が崩れます。私は、2020年度にオンラインでのライヴ授業、2021年度には教室での対面授業、オンラインでのライヴ授業、オンラインでのオンデマンド授業のいずれも行っており、最も楽でなかったのがオンデマンド授業であったからです。オンラインは通勤の時間を省くことができる、というくらいしか、楽な点は見当たらなかったのでした。いや、場合によってはそのことすら苦痛を感じることもありました。教室での講義であれば、行き帰りの電車に乗っている間にあれやこれやのことができますし、途中で街を歩くこともできます。たとえば、乗り換えのついでに、ということです。
講義、授業の準備ということでいえば、教室であれオンラインであれ大変ですが、オンラインのほうが大変でした。しかも、オンデマンドということは録画ということで、生で話すことができないのはつらいのでした。録画では、反応も何もわからないまま、とにかく作らなければなりません。撮り直しも何度か行いました。
「海星」氏は、「当初はコンテンツの準備が教員には大変だった。だが、一度作ってしまえば使い回せるので、長期的には負担が減る。一方の学生にとっても好きな時間に受講すればよい。通学の手間も省ける。時間的な拘束から解放してくれるオンデマンド授業に、皆が味をしめてしまったのだ」と書かれています。学生にとっての利点はわかります。しかし、教員がコンテンツを使い回すという点はどうでしょうか。ここは違うと思うのです。あるいは、NHKのラジオ語学番組のような内容であれば、2年間くらいは録画も使い回せるかもしれませんが、法律学、ましてや毎年どこかの分野で改正が行われるような税法や行政法では、録画も1回限りと考えてよいでしょう。
私は、録画を使い回すつもりもないですし、スライドや資料についても、多かれ少なかれ作り替えています。口頭での説明はなおさらです。同じテーマを異なる大学での授業で話すこともありますが(私の場合は、大東文化大学法学部、國學院大學法学部、中央大学経済学部)、日時、学部、学年、学生の反応などによって話す内容を変えます。これは悪い意味ではなく、時事問題に引っ掛けるなどの必要もあるからです。同じ内容であっても話し方などを変えざるをえないですし、私が全く同じことを繰り返して話すのはできないことなのです(性分に合わないとも言えます)。
ただ、「海星」氏の主張にも納得できる部分はあります。「カスタマイズされたオンデマンド文化への志向は、実はコロナ前から存在していた。宅配便の配達日時指定、ネットによる映画のオンデマンド配信など、自己都合に合わせてくれるサービスがすでに当たり前となっていた中、コロナ禍はそうした潮流に弾みをつけたと見るべきだろう」という箇所、および、「自己都合を最大化し、時間的拘束を嫌うという、私たちがすでにのみ込まれているオンデマンド文化自体に、他者との共通体験や濃密な人間関係よりも個人主義を優先しかねない力学がそもそもはたらいていることにむしろ目を向けるべきだろう」という箇所です。
それでも、「カスタマイズされたオンデマンド文化の志向」はそれほど強いものなのでしょうか。宅配便やオンデマンド配信はわかりますが、それら以外の事柄はどうでしょうか。週末に街を歩くと、多くの買い物客を見かけます。最終的にはインターネットショッピングを利用するとしても、やはり街であれやこれやの物を見たりする人は多いのです。
2022年度は、少なくとも私が仕事で関わっている大学は教室での講義、授業を行うことを前提としています。まだ、今後どうなるのかはわかりませんが。
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