今回は「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の第163回として2006年4月7日から18日まで掲載した「都電荒川線に乗って(その2)」の再掲載です。今から15年前の話ですので、その点には何卒御注意を。
不案内な三ノ輪駅を出て、北に歩きます。すぐに常磐線のガードが見えます。このガードを抜け、信号があるので道路を横断すると、三ノ輪橋電停への入口があります。ただ、これも意外なくらいに目立たず、わかりにくいというのが本当のところです。
上を見ればわかるということですが、表通りから少し引っ込んだ所です。上はビルになっていて、この中を通り抜けます。奥に電停があります。シャッターが閉まっているのは気になります。果たして、このあたりの商店街の状況はどうなのでしょうか。時間があまりなかったので、ゆっくりとは歩いていません。
ようやく三ノ輪橋電停にたどり着きました。ここから、町屋、王子、大塚、雑司が谷を通って早稲田へ出られる訳です。もっとも、私は新庚申塚で降りました(そこで降りないと、都営三田線に乗り換えられないため)。昨年、早稲田大学法職課程教室で講義を担当した時には、新庚申塚から早稲田まで荒川線に乗っていました。小学生時代に王子駅前から大塚駅前まで乗ったことがあるのですが、川崎市に住んでいて荒川区に行く用事などほとんどない人間にとって、三ノ輪橋、町屋、尾久は未知の場所でした。
三ノ輪橋電停を正面に見て、次に右を見ますと、三ノ輪橋商店街のアーケードがあります。真上に都電のレリーフがあります。前照灯が運転席の下に一つだけあることから一球さんというニックネームがあった6000型を基にしたのでしょう。
下を見ると、こんな商店街でした。曲がりくねっているのが気になります。アーケードといえば、私の地元にもありますし、日本最初のアーケード街であると言われる武蔵小山も、幼少時から今に至るまで私がなじんでいる所ですが、こんなに曲がりくねっていません。何となく、再開発前の溝の口駅西口商店街を思い出しましたが、規模は三ノ輪橋商店街のほうが大きいでしょうか。
ちょうど、早稲田行の電車が来ました。釣り掛け駆動という、昔の電車の音ですので、すぐにわかります。正面に、昔の都電の車両を紹介するようなレリーフが飾られています。
ここは、最初から東京都の路線だったのではなく、元は王子電気軌道という私鉄の路線でした。戦時中、東京市に買収され、都制施行(東京府と東京市が合併)によって東京都交通局の路線になりました。昭和38年から、都電の路線は次々に廃止されましたが、専用軌道(道路の上を走らない軌道)が多かった荒川線は残りました。たしか、黒字路線であったと記憶しています。しかし、東京都交通局も明らかにしているように、乗客数は漸減傾向にあります。
レリーフは、下から上に見ると歴史を簡単にたどれます。写真では切れていますが、時計があります。
ここから新庚申塚に向けて乗ることとします。果たしてどのような町並みを通ることやら。
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