ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

上野恩賜公園と国立西洋美術館

2013年01月28日 00時03分41秒 | まち歩き

(以下は、「待合室」の別室26として2012年4月4日に掲載したものです。2013年1月27日に閉じました。なお、写真は2011年12月4日に撮影しました)。

2011年12月4日、妻と上野の国立西洋美術館に行きました。地下鉄銀座線上野駅から美術館へ向かう途中、上野恩賜公園を歩きます。

 「上野と言えば西郷さん」という言葉があるのかどうかは知りませんが、東京周辺に住む者にとってのイメージを表すとこのようになります。それほど、高村光雲の作であるこの銅像は有名です(犬は別の作者によります)。今はともあれ、上京したらまずは上野公園のこの銅像へ、という方も多かったのではないでしょうか。

 しかし、西郷隆盛の写真は残されておらず、実像は不明と言われています。肖像画も有名ですが、これも実像を捉えたものではなく、親類の写真を参考にして作成されたものであるということです。

 また、この銅像は、鹿児島市にある銅像(これも私は見ています)と全く異なり、軍装ではありません。犬を連れて狩に出かける姿となっています。薩摩藩の下級武士から軍人となった西郷隆盛にはやや似つかわしくない像ですが、これは意図的なものであるらしいのです。

 彼は1827年、現在の鹿児島市に生まれ、薩摩藩主の島津斉彬の知遇を得て政治に参加します。その後、1867年12月9日に行われた王政復古の際に活躍し、翌年の江戸開城では大総督参謀として幕府側の勝海舟と会談を重ね、無血での開城に至ります。明治政府が誕生してからは参議筆頭として廃藩置県などを行いますが、1873年、明治6年の政変によって役職を辞して帰郷し、1877年、自らが経営していた私学校の生徒たちに煽られるような形で西南の役(西南戦争)を起こします。九州各地を舞台としたこの内戦の末、鹿児島市にある城山で西郷隆盛は自決します。

 明治政府に多大な貢献をしたとはいえ、最後は反乱者であった人物の銅像です。軍服姿とする訳にはいかなかったのかもしれません(多分に資金的な面もあったらしいのですが)。

 紅葉の時期が遅くなった、と言われて久しいのですが、2011年もそうでした。12月の上旬ですが、ちょうど見頃の時期でした。日曜日ということもあって、散策を楽しむ人も多い公園は、美術館や博物館の多い所でもあります。これから訪れる国立西洋美術館もその一つです。但し、名称に国立が関せられていますが、現在は独立行政法人です。

 右側に東京文化会館があります。JR上野駅の公園口からであれば、改札口を出てすぐの場所です。また、左側は正岡子規記念球場です。子規は野球を愛好していたようであり、ユニフォームを着た彼の写真も残されています。また、球場のそばに句碑があり、「春風や まりを投げたき 草の原」という句が、野球で用いられる硬球のデザインに彫られた石に刻まれています。なお、正岡子規が晩年に住んだ場所は、この公園から近い台東区根岸でした。

 それにしても、JR上野駅ほど、出口によって全く異なる印象を受ける駅も少ないでしょう。正面玄関口や広小路口は、いかにも下町という街並みが広がるのですが、公園口は下町という感じを一切覚えさせません。変な表現で誤解を受けたり叱られたりするかもしれませんが、出口によって客層、というより階層が全く異なるのではないか、という疑問すら浮かびます。私が上野駅を利用する時は、常に地下鉄のほうなのですが、まだ院生だった1990年代に東京文化会館を訪れた際に、そこで行われたコンサートの客層を見て、すぐ後に京成上野駅と地下鉄上野駅との間の通路にいた人々を見て、極端なくらいの階層の違いを実感したのです。当時、新宿、渋谷など、大きな駅の構内には多くのホームレスが生活していたのです。上野も例外ではありません。地下通路は格好の場所でした。

 国立西洋美術館での展覧会を見終わりました。入口のそばの前庭に、いくつかの作品が展示されています。一点を除き、オーギュスト・ロダンの作品です。

 上の写真は「地獄の門」で、この美術館が保有する松方コレクションの一つでもあります。上のほうに、非常に有名な「考える人」がありますが、実はこの「地獄の門」がオリジナルであるようです。

 ロダンは1840年にパリで生まれ、1917年にムードンで亡くなっています。「地獄の門」は、1880年にフランス政府から製作を依頼されたもので、元々はパリの装飾美術館の門扉となることが予定されていました。デザインはダンテの「神曲」から得られたものですが、国立西洋美術館の解説によると、どうやら最初の構想からは大きく変化したようです。「考える人」は、元々が詩作をするダンテの像が予定されていたものが大きく変化し、地獄へ墜ちる者たちを上から眺めるかのような姿になっています。

 このモニュメントは、結局、門扉として使用されることはなく、ロダンの生前にはブロンズに鋳造されていません。亡くなってから鋳造されたようです。

 これもロダンの作品で、有名な「カレーの市民」です。カレー(Calais)はフランスの北部にある港町で、ドーバー海峡のそばにあり、現在は英仏海峡トンネルのフランス側の入口ともなっています。

 この都市は英仏の百年戦争の際にイングランドに包囲されました。1347年のことです。その折、カレーの指導者の一人にして富裕層に属していたウスターシュ・ド・サン・ピエール(Eustache de Saint Pierre)が他の市民とともにイギリス国王の下へ、人質になるものとして赴き、カレーの街と市民を救った、という逸話が残っています。その後、1558年まで、この街はイングランドの領土となり、スペイン領を経て1598年にフランスの領土となります。

 時は下って1884年、カレー市ではウスターシュ・ド・サ・ピエールの記念碑の建設が決定されます。そこで指名されたのがロダンでした。彼は上に記した逸話に感動して、カレーの街の鍵を手にし、首に縄を巻き、裸足で門を出て行く6人の市民を像としたのです。ところが、完成した像を見て、カレー市はこの傑作を拒絶します。同市が望んでいたのは戦勝記念碑のようなものでしたが、ロダンの作品は全く異なっていたからでした。除幕式が行われたのは完成から7年も経ってからのことと言われています。

 さて、次があまりにも有名な「考える人」です。先に紹介した「地獄の門」の上にある像の拡大版です。実際にはロダンの作品というより、アンリ・ルボセが手がけた作品というほうが正確であるようですが、オリジナルがロダンのものであることに変わりはありません。

 


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