ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

阪急梅田駅にて(2003年11月29日)

2015年01月13日 16時45分31秒 | 写真

 2014年3月25日10時56分17秒付で「阪急梅田駅にて(2003年6月7日)」という記事を掲載しました。10年以上も前に撮影した写真ですが、最近、大阪へ行くことがなく、昨年も仕事の関係で行く機会を逃したので、今年こそは行ってみたいと思っています。

 古い写真データを保存している外付けHDDに、2003年11月29日に撮影した写真がありました。そこで、今回はこれらを掲載します。焦点がぼやけている写真もありますが、敢えて掲載します。

 河原町行きの急行で、3300系ではないかと思います。クリスマスを控えているシーズンのためか、クリスマスベルの絵柄のヘッドマークを付けています。

 この当時には急行が走っていました。停車駅は、梅田、十三、淡路、南茨木、茨木市、高槻市、高槻市から河原町までの各駅でした。2007年のダイヤ改正で急行はなくなっています。 

 阪急京都線の特急用として運用されていた6300系が停車しています。東急8500系と同じく1975(昭和50)年にデビューしており、1976年度のブルーリボン賞を受けています(東急8500系がローレル賞を受けています)。阪急は、関西の大手私鉄では珍しく、ワンハンドルマスコンを積極的に採用していますが、阪急で最初の例が神戸線用の2200系で、ほぼ同時期に京都線の特急用として6300系が登場したのです。ちなみに、2200系は既に形式として消滅しており、6000系に編入されています。 

 1980年代に6300系の特急に乗ったことがあります。当時の停車駅は、梅田、十三、大宮、烏丸、河原町でした。十三から大宮まではノンストップだった訳です。しかし、国鉄の分割民営化によりJR西日本が発足し、同社が積極的なサービス展開を繰り広げて攻勢に転じることにより、事情は大きく変わりました。京阪間の道路事情が良くなったこともありました。これらなどの原因により、阪急京都線は、JR東海道本線に乗客をとられるなど、苦戦が続くことになります。それを打開するためということで、特急の停車駅が増え始めました。そうすると、6300系の2扉という構造は混雑時に遅延の原因となるなど、問題が出てきました。特急用車両として古くなっていたことも否めません。そこで、2008年度から編成を短くし、嵐山線への転用が始まりました。また、一部の編成は6両編成の「京とれいん」として、快速特急で運行されています。

 特急河原町行きでした。既に9300系がデビューしており、特急として運用されていたのですが、6300系も特急用として運行されていました。なお、阪急と言えばマルーン(茶色)というイメージがありますが、屋根部分がアイボリーとなったのも、6300系が最初です。

 阪急梅田駅は、東のほうから京都線、宝塚線、神戸線の順番に発着場を有しています。宝塚線のホームに目を移せば、6000系が止まっていました。普通電車の宝塚行きです。当初はマルーン一色で、屋根の部分がアイボリーとなっていなかったのですが、いつの頃からか現在の塗装となっています。

 再び6300系です。当時の特急停車駅は、梅田、十三、茨木市、高槻市、長岡天神、桂、烏丸、河原町の順でした。

 現在の停車駅は、梅田、十三、淡路、茨木市、高槻市、長岡天神、桂、烏丸、河原町の順です。また、ややこしいことに通勤特急と快速特急があり、快速急行もあって、慣れないと停車駅で混乱をきたしかねません。通勤特急の停車駅は梅田、十三、茨木市、高槻市、長岡天神、桂、西院、大宮、烏丸、河原町の順で、快速急行との違いは淡路に止まるか止まらないかということだけです。一方、快速特急の停車駅は梅田、十三、淡路、桂、烏丸、河原町の順です。

 普通電車の高槻市行き、3300系です。元々、大阪市営地下鉄堺筋線との直通運転のために製造された車両で、1967年にデビューしました。登場時は冷房装置を備えておらず、方向幕も向かって左側にしかなく、しかも形が異なっていました、関西らしく方向板を多用していたようで、特急として運用された際の2枚看板の姿が写真として残されていました。


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