昨日(3月16日)の朝日新聞朝刊1面14版トップ記事は「成年後見 選挙権なし『違憲』 ダウン症の原告、勝訴 東京地裁判決」です。昨日、速報メールが届き、すぐに「思い切った判断をしたな」と思いましたし、改めて記事を読めば様々なことを考えさせられますし、公職選挙法が問題だらけの法律であることを改めて実感します。
裁判で争われたのは、公職選挙法第11条第1項第1号の合憲性です。ここで規定全体をみておくこととしましょう。
(選挙権及び被選挙権を有しない者)
第十一条 次に掲げる者は、選挙権及び被選挙権を有しない。
一 成年被後見人
二 禁錮以上の刑に処せられその執行を終わるまでの者
三 禁錮以上の刑に処せられその執行を受けることがなくなるまでの者(刑の執行猶予中の者を除く。)
四 公職にある間に犯した刑法(明治四十年法律第四十五号)第百九十七条から第百九十七条の四までの罪又は公職にある者等のあっせん行為による利得等の処罰に関する法律(平成十二年法律第百三十号)第一条の罪により刑に処せられ、その執行を終わり若しくはその執行の免除を受けた者でその執行を終わり若しくはその執行の免除を受けた日から五年を経過しないもの又はその刑の執行猶予中の者
五 法律で定めるところにより行われる選挙、投票及び国民審査に関する犯罪により禁錮以上の刑に処せられその刑の執行猶予中の者
2 この法律の定める選挙に関する犯罪に因り選挙権及び被選挙権を有しない者については、第二百五十二条の定めるところによる。
3 市町村長は、その市町村に本籍を有する者で他の市町村に住所を有するもの又は他の市町村において第三十条の六の規定による在外選挙人名簿の登録がされているものについて、第一項又は第二百五十二条の規定により選挙権及び被選挙権を有しなくなるべき事由が生じたこと又はその事由がなくなつたことを知つたときは、遅滞なくその旨を当該他の市町村の選挙管理委員会に通知しなければならない。
記事の解説にも書かれていますが、成年後見制度は1999(平成11)年の民法改正により、2000(平成12)年に開始されたものです。それまでの禁治産制度は、家庭裁判所による宣告を戸籍に記載することによる問題もあり、また、一律に「無能力者」として扱うという点にも問題がありました。高齢化の進展により、判断能力の差の相違などに対処できなくなっていたのです。また、禁治産制度には本人の保護という観点が皆無と言ってもよいものでした。
成年後見制度についてよく唱えられる言葉は「自己決定の尊重」と「本人の保護」です。実は、この二つの言葉の間に緊張関係が存在する場合もあるのですが、両者が高度な段階で調和することが求められています。もとより、取引相手の保護や取引そのものの安全という観点ともバランスを取らなければなりません。
さて、公職選挙法第11条第1項第1号に登場する成年被後見人は、民法第7条により「精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者」と定義されており、本人などの請求によって家庭裁判所が「後見開始の審判をすることができる」とされています。ここで審判を請求できる者の筆頭に「本人」があげられている点に注意を要します。「事理を弁識する能力」を回復していることがある訳です。また、民法第10条には「後見開始の審判の取消し」も規定されています。
また、民法第11条以下には被保佐人、同第15条以下には被補助人の規定があります。いずれも成年後見制度の一環をなしますが、被保佐人は「精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分である者」、被補助人は「精神上の障害により事理を弁識する能力が不十分である者」とされています。
成年被後見人、被保佐人、被補助人のそれぞれが法律行為をなす場合に、それぞれ効力、成年後見人・保佐人・補助人の同意を要する範囲、成年後見人・保佐人・補助人が取り消しうる範囲が異なります。ここでは詳しい説明を省略いたしますが、注意をしなければならないのが民法第9条で、成年被後見人の法律行為であっても「日用品の購入その他日常生活に関する行為」については成年後見人が取り消すことができません(成年被後見人が単独でなしえます)し、ここでいう法律行為はあくまでも財産上のものを意味しますので、例えば婚姻や離婚などのような身分法上の行為については、成年被後見人が単独で行いうるのです。
このように考えると、成年後見制度と選挙制度とは、全く無縁のものであるとまでは言えないとしても、簡単に連結させるべきものでもない、ということになります。
公職選挙法第11条第1項第1号の立法趣旨はよくわかりませんが、おそらく、判断能力の問題、不正な投票が行われる可能性を考慮したのでしょう(上記朝日新聞記事にもその旨が書かれています)。しかし、そうであるとすれば、成年被後見人のみが選挙権を認められないというのが合理的であるかどうか、疑問が残ります。第1項を改めて読み直すと、第2号ないし第5号は刑罰を執行されている最中の者または執行猶予中の者があげられていますので、第1号だけが異質なのです。ますます、合理性の有無が問われます。
さて、東京地方裁判所はいかなる判断を示したのでしょうか。昨日の朝日新聞朝刊37面14版に「成年後見制度と選挙権 判決要旨」という記事がありますので、それによることとしましょう。本当は望ましくないのですが、所々で記事を引用します。
まず、選挙権については、国政への参加を保障する基本的な権利であると位置づけ、このような権利の行使を制限するには「やむを得ない理由」が必要であるとしています。
その上で、選挙権には権利としての側面と公務遂行としての側面とがあり、後者の観点から事理弁識能力を欠いている者に選挙権を保障しないことが、公職選挙法の立法目的として合理性がないとは言えない、と述べています。
選挙権の性質については議論がありますが、東京地方裁判所は二元説をとっています。この考え方によると公職選挙法第11条の規定は選挙権に対する必要最小限の制約を定めるものであるということになるでしょう。私は権利一元説でもよいのではないかと考えるのですが、いかがでしょうか。
判決に戻りますと、成年後見制度の趣旨への言及が見られます。この部分は、上で私が記した趣旨も示されており、「成年後見制度は、自らの財産などを適切に管理処分する能力が乏しい者の不利益を防ぎ、適正な利益を受けられるよう設けられた制度だから、後見開始の決定はその目的に沿って判断される。これは選挙権を行使するに足る能力とは明らかに異なる」と述べています。これはかなり重要な部分でしょう。成年後見制度の立法趣旨を参照したものと考えられるからです。事理弁識能力の欠如または不十分性には様々な原因がありますが、この能力がどの程度であろうが生きていることには変わりがないのです。つまり、権利能力はある訳です。憲法が国民主権原理を謳っている以上、日本国民として生きる者は主権者ですから、当然、成年に達した者には選挙権が認められるはずです。それが制約される、さらには認められないというのは、よほどの理由が必要とされるでしょう。実際、東京地方裁判所の判決も同じようなことを述べています。
おそらく、選挙権を認めないとする見解は、既に示したように不正投票のおそれをあげるでしょう。これに対し、東京地方裁判所は「その頻度が相当高く、結果に影響を生じさせかねないなど選挙の公正が害されるおそれがあると認める事実は見いだしがたく、推認する証拠もない」と切り捨てます。また、具体的にどこの国かはわかりませんが、成年後見制度に相当する制度を導入している国で、成年被後見人に相当する人にも選挙権を保障するところがあるとも指摘されています。
そして、結論として公職選挙法第11条第1項第1号は憲法に違反するが故に無効である、とされました。
この判決に対し、被告が控訴するかどうかはわかりませんが、公職選挙法の見直しを迫るものであることは否定できないでしょう。また、札幌地方裁判所、さいたま地方裁判所および京都地方裁判所でも同様の訴訟が提起されているようで、それぞれがいかなる判断を示すかという点も注目すべきところでしょう。
少なくとも、今回の東京地方裁判所の判決については、多くの憲法学者が、少なくとも大筋について賛意を示すものと思われます。投票価値の平等も重要ですが、公職選挙法には選挙権そのものについても問題が少なくないと言われていますので、国会には十分な再検討を急ぐことが望まれている、ということになります。
(障害という表記に問題があると言われることがあります。その通りかもしれません。しかし、今回はこの表記を使用いたします。なお、今回は我妻榮・有泉亨・清水誠・田山輝明『我妻・有泉コンメンタール民法総則・物権・債権』〔第2版増補版〕(2010年、日本評論社)も参照しています。)
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私は憲法学者でないのですが、1997年4月から2004年3月まで大分大学教育学部・教育福祉科学部に所属し、憲法の講義を担当していました。そのためという訳でもないのですが、憲法問題には深い関心があります。財政法の分野のかなり多くの部分は憲法問題そのものですし、行政法や租税法も憲法と深い関係があります。「行政法講義ノート」〔第5版〕の「第3回 憲法と行政法」にも記しましたが、ドイツの行政法の教科書として日本でも有名なHartmut Maurer, Allgemeines Verwaltungsrecht, 18. Auflage, 2011 §2 Rn. 1は、「行政および行政法は本質的にその時代の憲法によって決定される」と述べています。また、ドイツ連邦行政裁判所長官であったFritz Wernerは「具体化された憲法としての行政法」(Verwaltungsrecht als konkretisiertes Verfassungsrecht, DVBl. 1959, 527)という論文を著しています。
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