多くの戦犯が、GHQによって処刑された巣鴨プリズン。
その歴史は明治二十八(1895)年に、警視廳監獄鴨支署として設置されたことに始まります。
それ以前は、畑が広がる場所でした。
(造幣局南東側の石垣は刑務所の名残)
二年後に巣鴨監獄と改称され、さらに法改正により大正十一(1922)年に巣鴨刑務所と改称されます。
この当時の敷地は、現在のサンシャインシティや豊島郵便局、造幣局工場一帯で
正門は造幣局の正門付近にありました。
(この付近に正門があった)
(造幣局の正門)
昭和十(1935)年に巣鴨刑務所が府中へ移転し、その跡地には二年後に市谷刑務所が移転してきて
東京拘置所となりました。
この頃、敷地は現在のサンシャインシティの範囲に狭まります。
(市谷刑務所跡は現防衛省)
終戦後、GHQに接収され巣鴨プリズンと呼ばれるようになります。
ここで多くの戦犯が処刑されましたが、後に処刑場の跡地はさすがに建物は建てられず
その周囲を東池袋中央公園として、処刑台のあった場所には石碑が建てられました。
(東池袋中央公園)
(処刑場跡)
(現在は猫の楽園)
敷地が狭くなってからの刑務所の正門は、刑務所の南側に移動し
これはサンシャインシティとなり、西側の池袋駅周辺が繁華街となった今でも
サンシャインシティの正面玄関が設置されていることに名残をとどめています。
(正門があった辺り)
(現在のサンシャイン正面車寄せ)
巣鴨プリズン昭和二十七(1952)年に平和条約発効によって返還され
巣鴨刑務所として昭和三十三(1958)年まで運用されます。
その後、東京拘置所を復元設置し、昭和四十六(1971)年に栃木県黒羽に移転した小菅刑務所跡地に
東京拘置所を移転させました。
その後は建物を解体し、跡地には店舗やオフィス、水族館や博物館、マンション複合施設として
昭和五十三(1978)年にサンシャインシティが完成しました。
(サンシャインシティのマンション棟)
(サンシャイン60)
(サンシャインシティ屋上庭園)