上野戦争では、輪王寺宮という存在が大きな役割をしていた、というかさせられていたようです。
のちの北白川宮能久親王と称されるこの人物の運命は本当に興味深いものがあります。→ こちら
錦の御旗が彰義隊側にも必要だったということなのでしょうか。
まだ若かったたため、側近たちに従うしかなく、その後も台風の目のように東北を動かされることになったように思われます。
奥羽越列藩同盟については こちら
欧米の武器商人などの動きが伝えられているものの果たして使いこなせたものかどうか・・・・・
森鷗外は、作家兼歴史家として能久親王に特別な思いを抱いたのがよくわかります。
森鷗外がドイツ留学時の恋人が日本へ追いかけてきたものの家族の反対で会うことすらできなかったとはよく知られています。
能久親王も上野戦争のあと、ドイツに行き似たようなエピソードを残しています。
森鷗外による「能久親王事蹟」が遺されています。その中に掲載されたという「能久親王年譜」が青空文庫にありました。 → こちら
能久親王は近衛師団長として出征した台湾でマラリアに罹り亡くなったとのこと。
大日本帝国がハプスブルク帝国同様に消滅への道をたどらないためにはどうしたらよいのか、と森鷗外は考えたことでしょう。