上野戦争、関東大震災、戦災をくぐりぬけて残ったこの護国院大黒天は、1717年に一度焼失しているとのことです。
もしかしたら、そのころ江戸は何らかの危機があっての「護国」ではないか、と思ってみました。
そういえば、護国寺はどうだったのか・・・・・ こちら
護持院が1717年に焼失して護国寺境内へと移されたとのこと。
1700年前後はもしかしたら危機と思われる状況があったのかもしれません。
森鴎外が「護持院原の敵討」という作品を残しています。
史実としてはその敵討は1830年代の出来事のようです。
1913年に発表されたこの作品にどういう意味があったのでしょうか。
「敵討」について
護持院に着目すれば
1700年ごろのものとしては
忠臣蔵、伊勢桑名藩での野村騒動など。
1830年代に着目すれば
大塩平八郎の乱
1910年ごろとすれば
日清、日露戦争、あるいは大逆事件
そのほかにも多くの殉教者たちとか旧幕府側など複雑な集積といったものなどにも思いを巡らしたということはないでしょうか。