元気のもらえる本を見つけました☆
広瀬寿秀著「日系アメリカ人最初の女医 須藤かく」です。
右側のすわっている女性が、須藤かく(1861-1963)
左の女性は一緒に渡米した 阿部はな(1866?-1911)
1861年、須藤かくは、幕末の弘前で藩士の娘として生まれ、英語を学びたいと10歳で上京、
横浜・共立女学校で長年英語を学んで、1891年、30歳の時に友人阿部はなと医師で宣教師のアデリン・ケルシーとともに渡米、渡米後の1年間は学費を稼ぐ目的で教会で講演会を行ったのだとか。上の写真はそのときのものとのこと。
2人は1892年、オハイオ州シンシナティ女子医科大学に入学、1896年に名称が変わったローラ・メモリアル女子医科大学を卒業
1897年、3人で日本に帰国して慈善の医療活動を忙しく始めるものの、病院の経営に行き詰り、1902年、再び3人は渡米する。
そのときに須藤かくの妹の夫成田ヤソキチがその子ども3人と同行し、ケルシー家の農場を手伝いつつ、子どもの教育をすることになった。母親である妹は小さい子どもがいたため、遅れて渡米したものの、シアトルで伝染性のトラコーマと診断され、入国ができずに帰国させられ、子どもたちに会うことができないまま日本で亡くなったという。
ケルシー、須藤かく、阿部はな、成田家はひとつの家族のように暮らし、成田家の子どもたちと近隣の子どもたちも教育し、近所の病人を治療した。30年以上ともに暮らした阿部はなは44歳で亡くなった。
2人をずっと支援したアデリン・ケルシー(1844-1931)は87歳で亡くなった。
2人を看取った須藤かくは92歳でアメリカ市民権を獲得し、1963年、102歳で姪夫婦に看取られて静かに息を引き取った。
詳細な内容については、ぜひご一読ください。
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この本を読んで思い出したことがあります。
ほぼ同じ時期に、津田塾大学を創立した津田梅子を支援したアナ・ハーツホーンのことです。
津田塾大学HPから こちら
明治時代、士族の娘たちは苦しい思いをした人たちもいたのでしょうが、いっぽうでは現代以上に思い切った人生を送った人たちもいたんですね。
人生をかけて支援してくれたアメリカの女性たちがいたこともあわせて大きな勇気が湧いてくる気がします。
女性同士の助け合いは大きな力を生み出す、ということではないでしょうか。
過去の中にも見つけることができる
ような気がします。
むしろはっきりとした姿として感じられたりします。
年齢もサバを読むことがあったようですが
表紙の2人は実際は30歳を過ぎていたようです。
日本の女性は派手な美しさには負けてしまうけれど、若さが長く続く、という点では優っているようです。
また、賢明さをウリにするべきだと思います。
日本をぜひパートナーとしたい☆
こういう国になるべきではないでしょうか。
こういった工芸品がただ同然で処分されている傾向がありますが・・・・・
物々交換といった状態になるときには
後悔することになる?
日本が評価されたのは
精巧な工芸品や着物の織物ではなかったかと思います。
ケルシーは腕のいい医者であったらしく
お礼にとこういった工芸品をもらったようです。それが弟子である2人の学費に役立ったわけですね。
才能のある伝統工芸士といった方たちを大事にすることは必要ではないでしょうか。
ただし、長期間かつどこの土地でも
その価値がわかるもの、という観点も必要そうです。
優秀な順に海軍経理学校とか陸軍士官学校とか並んでいたのを見たことがあります。
現代では
医学部が偏差値が高いすなわち
日本のお医者様たちは日本の頭脳である
ともいえるのでは?
ぜひ現代の不合理と戦っていただきたいと思います。
と被害妄想がムクムク。
改革を急いでいただきたいですね。
治療法の情報が間違っていた?
結核患者が家で治療をしていたなら
家族が感染してしまうのは当たり前っていうか。
結核の治療は山なんですよね。
コロナに関しても参考になるのでは。