英の放電日記

将棋、スポーツ、テレビ等、日々感じること。発信というより放電に近い戯言。

『相棒 eleven』 第10話「猛き祈り」

2012-12-20 23:46:56 | ドラマ・映画
心情的な判断と法的な判断
~『相棒』の一つのテーマともいえる右京の「法の精神」~

・右京と享の合致点
 かつての相棒であった亀山薫、神部尊と意見の衝突が見られたが、今回は右京と享は一致していた。自 殺(即身仏成就)を止めるという切羽詰まった状況だったので事情が違うとも言える。
 それはさておき、享の言葉をもとにした推理を間違いないと断言する右京、享への信頼度が高い。
・法的罪
 「自 殺ほう助」(即身仏成就=自 殺の手助け)と「墳墓発掘の禁」(即身仏となった遺体を掘り起こす)に当たるとのこと。(年金などの手当ての不法取得の可能性もある)
 「あたしたちは、誰かに迷惑をかけていますか?」……心情的には、庵主・伏木田の崇高な志は尊敬の念を抱く。が、警察官として法律に触れる行為は見過ごせない。

 運悪く?享に即身仏の行を知られてしまった。
 即身仏になるのを止めようとした享に暴行してしまったのが大きな過ちで、伏木田によって悔い改めた者たちの行為とは思えない。「断食の行」とか言ってごまかすのは無理かなあ。
 それと、「墳墓発掘の禁」であるが、墓の定義が難しいような気がする。

 さて、上記の法的罪にまつわる右京と享の判断と真相に至る右京の推理が表のテーマであったが、享のキャラの掘り下げと、享の緊急事態による周囲の反応が裏のテーマであるように思う。
 捜一トリオや暇か課長と大小コンビも享の身を案じたり、いつも以上に力の入った捜査をしていた。
 「こるぁ!カイト!、てめえ、二度とキノコ狩りなんか行くじゃねえぞ、わかったか!」と伊丹は凄んでいたが、享には「愉快な人」と認定されてしまった。

 享の父も享のことを気にかけていた様子。享には刑事を辞めてほしいようだが、職務を全うするための自分の非道な行為を知られたくないのかもしれない。

 享の彼女・悦子にはやられた!
 あれって、嘘だったの!
(夜行バスでの出会い)
 とっさによく嘘がつけるものだ。やはり、女性は恐ろしい……

刑事部長の報復
「部長!少々困った事態になりました。実は、甲斐享が先に女性を襲っていたようです」
「なんだと?」
「相手は強姦目的で襲われたと言っています。しかも、本人も襲ったことをおおむね認めており、それを裏付ける証拠も挙がっているようです」
「うむ…」
「蓋を開けてみれば、被害者が、実は加害者でもあったわけで…部長」
「任せる」
「は?」
「あとは君の一存で進めなさい。当然、責任もキミが取るんだ」
「それは…」
「僕は聞かなかったことにしよう」
「そんな…」
「うん。キミが報告を怠ったことにしよう」
「通るわけないですよ。そんなことは…」
「通るんだよ!……縦社会では、十分通ります」

 わははは!見事な反撃。最後の「縦社会では、十分通ります」が最高!……「ます」ですかぁ(笑)
これで、先週分はチャラにした?

 最後の幽霊騒動は微妙かなあ。いや、伏木田(幽霊)が現れ、謝罪し記憶を戻させる(記憶を奪ったのも伏木田)のは整合性が高い。ただ、右京が悔しがるのは面白いとして、ここまではっきり幽霊の存在を証明してしまうのはどうかなあと思う。
 心霊現象など不合理な事象を認めてしまうと、論理的な推理を進める『相棒』の世界を崩してしまう気がする。

法医学のピノコ姫さん、お見事でした。


【ストーリー】番組サイトより
 何者かに暴行を受け、記憶喪失になってしまった享(成宮寛貴)。やはり「まろく庵」の人間たちが享と関わりがあったことは間違いなさそうだ。

 伊丹(川原和久)らは入院中の享に「まろく庵」の生方(山本學)、坂口(ウダタカキ)、榊(相葉弘樹)らの写真を見せ、彼らが全員過去に犯罪での逮捕歴があることを説明する。そんな人間たちと享の間に何があったのか改めて質問するが、享はやはり「鈴の音」以外は思い出せないという。

 一方、右京(水谷豊)は「まろく庵」周辺で聞き込みをする。近くの商店の女店主の話では、生方と行動をともにする真智子(柴本幸)の父・伏木田はガンを患っていたが入院もせず、医師に往診してもらっていると聞いていたという。その女店主がやせ細った伏木田を最後に見たのは、半年ほど前だったとか。

 伊丹らが家宅捜索令状をとり、「まろく庵」へ乗り込んだ。右京も伊丹らに合流したそのとき、生方が「享を半殺しの目にあわせたのは私です」と自供するのだが…。

 生方の不可思議な自供の裏に隠された驚くべき真実とは? 窮地に陥った享を右京は鋭い推理で救えるのか!?

ゲスト:柴本幸 山本學 ウダタカキ 梶原ひかり 相葉裕樹 末広透 尾高杏奈

脚本:輿水泰弘
監督:安養寺工
コメント (4)
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米長邦雄永世棋聖、逝去

2012-12-20 16:37:08 | 将棋
「訃報です。日本将棋連盟の……」
お昼のニュースで淡々としたアナウンスに、
≪えっ、誰?≫
それが米長会長であると分かったが、
≪なんで???…≫
『米長会長』と『死去』という単語が結び付かなかった。

 棋士としての永世棋聖・米長邦雄。
 「相手にとって重要で、自分にとって無関係な一局こそ全力を尽くす」という米長哲学が浸透している将棋界は素晴らしいと思う。
 この哲学は、将棋・勝負に殉ずる棋士精神の礎となるもので、氏の残した功績の最大のものであろう。この哲学の素晴らしさは言うまでもないが、それに加えて、そういった場面に遭遇する際の棋士の迷いをなくしたという実戦的利点も大きい。
 窮地に陥っている棋士にもこの精神が承知されているから、勝ち負けの結果が関係のない棋士も迷わず全力を注ぐことができるのだ。米長哲学を信奉していても、棋界に浸透していなかったら、≪ここで勝てば、相手の棋士にとどめをさすことになる。根に持たれるかもしれない≫などと考えてしまい、指し手に曇りが生じたり、将棋に徹することができても心の葛藤が起こるかもしれない。

 米長永世棋聖の将棋と言えば、若い頃は『さわやか流』、熟練してからは『泥沼流』と呼ばれた(本人が自称した)。
 『将棋世界』誌の講座(確か、大山15世名人と米長永世棋聖の講座を並べ『黄金講座』と称していたと思う)で、逆転のテクニックを伝授していた。
 不利な時の勝負術、たとえば、「相手より自分が優位なポイントを主張する」とか、「一歩譲って、≪お好きなようにして≫と開き直り、そのかわり≪間違えたら許さないわよ≫と釘を刺しておく」といった勝負術が心に残っている。
 その中の勝負術で光るのが『米長玉』であろう。玉をあらかじめ1八や9二にかわしておいて、相手の切っ先をその懐の深さで凌ぐという戦術である。
 終盤の寄せあいの段階で、玉をかわし相手が駒を切ってくる攻めが王手にならず同○○と応じることができ、駒が入れば相手玉を詰ますことができるというテクニックは、厳密に言うと『米長玉』ではなく、もっと早い段階の終盤の入口あたりで玉を寄るのが『米長玉』であると自身が講座の中で述べていた。
 ≪ううん、そうかぁ、なあるほぉどぉ~≫と感心しながら読み、強くなった気がしたものだった。

 会長としての米長邦雄氏。
 景気の後退、出版業界の退潮傾向の難局に、道義的なことはともかく名人戦契約で勝負手を放ち、公益社団法人化、新棋戦発足やネット展開も切り開くなど、手腕を発揮した。多少、舵を切り過ぎたところ(女流棋士問題等)もあるが、氏の残した功績は大きい。
 各界との人脈も発言力もある米長氏の死去は、将棋界にとって影が差す出来事かもしれない。幸いなことに舵を切っている最中ではなく、舵をほぼ切り終えた段階であったことだ。今後、航路を安定させながら乗り切ってほしい。
 会長は誰になるのか……会長の器としては渡辺竜王だと思うが、それはない。


 将棋界にとって大きな損失、早過ぎる死である。
コメント (6)
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