静岡県の川勝平太知事は9日の定例記者会見で、2013年度の全国学力テストで小学国語Aの成績が全国最下位だった結果を受け、成績が悪かった順に100の小学校の校長名を公表したいとの意向を示した。
川勝知事は理由を「子どもに責任はないということを明確にするため」と説明。「最低というのは教師の授業が最低ということ。教師は大人なので責任を持ってもらい、反省材料にしてほしい」と述べた。
国の実施要領では各都道府県の教育委員会に市町村名や学校名を公表しないよう求めている。
(共同)
『中日新聞/CHUNICHI Web』記事より
記事タイトルのような表現は好ましくないとは思っているが、使わずにはいられないような発言である。
この発言、いろいろな問題を感じて、まとめにくさこの上ない。仕方ないので、問題の構造上に沿った話の展開はならないが、思った順に書いていきたい。(単純に呆れていたのだが、知事の発言の突っ込みを考えていくうち、あれこれ突っ込み所が湧いてきて、まとまらなくなってしまった)
1.目的が正しくて、手段が違法でなければ、その行為が及ぼす結果や影響を考えなくていいのか? この命題、刑事ドラマでよく出てくる。
「被害者が極悪人でも、殺人という行為は許されない」、また、「一般的に悪いことでも、法で規制されていなければ合法である」 というような論理であるが、今回の知事の発言は、相当な低レベル、子どもの口喧嘩を思わせる詭弁である。
知事の目的は、好意的な解釈をすれば「静岡県の学力レベルの向上」であり、その手段として、「成績が悪かった順に100の小学校の校長名を公表する」である。
この行為(手段)が学力向上につながるかは次項以下に回すとして、その行為が及ぼす結果として、「公表された校長(学校)は無能(学力が低い)」と認識されることになる。
そういう評価を覆すために、その学校が頑張るという効果は得られるかもしれないが、悪影響も少なからず考えられる。文科省もこの辺を考えて公表しないよう求めているわけだが、この知事は校長を叱咤激励する(罵る)ことで、効果が出ると考えているようだ。
悪影響については考慮しなかったのだろうか?考えはしたが、「学力向上>悪影響」とかんがえたのか、知事自身が主張した「学校名を公表するのではなく、校長名を公表する」だけと考えたのかもしれない。
知事自身の発言なのに「かもしれない」と表現したのは、あまりにも短絡的な思考だったので、とても本気には思えないからである。情報社会の現代において「校長名=学校名」なのは明らかで、本気で学校名の公表に繋がらないと考えていたとしたら、本当に馬鹿で、この知事を選んだ静岡県民の常識も疑いたくなる。
また、単なる詭弁だとしたら、これはこれで、知事の人格が最低で、こんな知事を選んだ県民の常識を疑いたくなってしまう。うまい例えになっているかは疑問だが、「首は(直接)絞めていない。ただ、紐を首に巻きつけて両側に引っ張っているだけだ」と言い逃れしているようなもので、まさに、小学生の口喧嘩のレベルである。
2.もっと効果的な方法があるだろう
賞罰でレベル向上を図るなんて、体罰と同レベルの原始的で楽をする方法である。
学力レベルが校長の実の責任かと言う議論も次項以降に回すが、学力レベルの責任を校長に追わせるとするならば、成績の悪かった校長と面談をする、あるいは、「何故成績が悪かったか」というテーマのレポートを校長の直筆で提出させた方が効果があるはずだ。
3.学力レベルは校長の責任なのか?
もちろん責任の一端は校長にもある。しかし、児童(生徒)自身の資質や努力、家庭環境、教員1人当たりが受け持つ児童数まどの学校環境、学校の教育環境(教員採用の際の志願者の資質を見極める目なども含む)を整える県教委など多くの要素が考えられる。
一般に、家庭の所得と学力は相関関係(所得が高ければ、学力も高い)があるというデータが出ている。上記で述べた教育環境や県民所得を担う総責任者は知事である。
「学力が低いのは知事のせいだ」と言える。学力が低いのを校長の責任にして罵る前に、県政を顧みる必要があるはずだ。
4.学校に求められるのは学力だけなのか?
いじめ問題など、子どもの人格形成(他人を思いやる心、くじけない心など)など、大切なことは他にもたくさんあるはずだ。(もちろん、家庭の責任が大きい)
学力だけを取り上げて評価を下すというのは、如何なものだろうか?
静岡県民の皆さん、さっさとリコールしてはいかがでしょうか?
川勝知事は理由を「子どもに責任はないということを明確にするため」と説明。「最低というのは教師の授業が最低ということ。教師は大人なので責任を持ってもらい、反省材料にしてほしい」と述べた。
国の実施要領では各都道府県の教育委員会に市町村名や学校名を公表しないよう求めている。
(共同)
『中日新聞/CHUNICHI Web』記事より
記事タイトルのような表現は好ましくないとは思っているが、使わずにはいられないような発言である。
この発言、いろいろな問題を感じて、まとめにくさこの上ない。仕方ないので、問題の構造上に沿った話の展開はならないが、思った順に書いていきたい。(単純に呆れていたのだが、知事の発言の突っ込みを考えていくうち、あれこれ突っ込み所が湧いてきて、まとまらなくなってしまった)
1.目的が正しくて、手段が違法でなければ、その行為が及ぼす結果や影響を考えなくていいのか? この命題、刑事ドラマでよく出てくる。
「被害者が極悪人でも、殺人という行為は許されない」、また、「一般的に悪いことでも、法で規制されていなければ合法である」 というような論理であるが、今回の知事の発言は、相当な低レベル、子どもの口喧嘩を思わせる詭弁である。
知事の目的は、好意的な解釈をすれば「静岡県の学力レベルの向上」であり、その手段として、「成績が悪かった順に100の小学校の校長名を公表する」である。
この行為(手段)が学力向上につながるかは次項以下に回すとして、その行為が及ぼす結果として、「公表された校長(学校)は無能(学力が低い)」と認識されることになる。
そういう評価を覆すために、その学校が頑張るという効果は得られるかもしれないが、悪影響も少なからず考えられる。文科省もこの辺を考えて公表しないよう求めているわけだが、この知事は校長を叱咤激励する(罵る)ことで、効果が出ると考えているようだ。
悪影響については考慮しなかったのだろうか?考えはしたが、「学力向上>悪影響」とかんがえたのか、知事自身が主張した「学校名を公表するのではなく、校長名を公表する」だけと考えたのかもしれない。
知事自身の発言なのに「かもしれない」と表現したのは、あまりにも短絡的な思考だったので、とても本気には思えないからである。情報社会の現代において「校長名=学校名」なのは明らかで、本気で学校名の公表に繋がらないと考えていたとしたら、本当に馬鹿で、この知事を選んだ静岡県民の常識も疑いたくなる。
また、単なる詭弁だとしたら、これはこれで、知事の人格が最低で、こんな知事を選んだ県民の常識を疑いたくなってしまう。うまい例えになっているかは疑問だが、「首は(直接)絞めていない。ただ、紐を首に巻きつけて両側に引っ張っているだけだ」と言い逃れしているようなもので、まさに、小学生の口喧嘩のレベルである。
2.もっと効果的な方法があるだろう
賞罰でレベル向上を図るなんて、体罰と同レベルの原始的で楽をする方法である。
学力レベルが校長の実の責任かと言う議論も次項以降に回すが、学力レベルの責任を校長に追わせるとするならば、成績の悪かった校長と面談をする、あるいは、「何故成績が悪かったか」というテーマのレポートを校長の直筆で提出させた方が効果があるはずだ。
3.学力レベルは校長の責任なのか?
もちろん責任の一端は校長にもある。しかし、児童(生徒)自身の資質や努力、家庭環境、教員1人当たりが受け持つ児童数まどの学校環境、学校の教育環境(教員採用の際の志願者の資質を見極める目なども含む)を整える県教委など多くの要素が考えられる。
一般に、家庭の所得と学力は相関関係(所得が高ければ、学力も高い)があるというデータが出ている。上記で述べた教育環境や県民所得を担う総責任者は知事である。
「学力が低いのは知事のせいだ」と言える。学力が低いのを校長の責任にして罵る前に、県政を顧みる必要があるはずだ。
4.学校に求められるのは学力だけなのか?
いじめ問題など、子どもの人格形成(他人を思いやる心、くじけない心など)など、大切なことは他にもたくさんあるはずだ。(もちろん、家庭の責任が大きい)
学力だけを取り上げて評価を下すというのは、如何なものだろうか?
静岡県民の皆さん、さっさとリコールしてはいかがでしょうか?
>下位100校の校長名を公表すると唐突に表明したからさ~大変!
>学校名を公表しないが文科省のルール、校長名とは記載されていないからこれはOKだとする県知事。
>これに対し文科省では校長名イコール学校名との認識を示し県教委はこれを順守すべきだとの見解。
>今回の件で、嘘つき平太に屁理屈平太がプラスされた。
学校長は、学校教育に責任のない人なのか。ただ、他の教員よりも金を多く貰っているだけなのか。
その責任者であるならば、問題があれば、名前を明らかにされても仕方がない。
問題の解決には、なによりも責任者の自覚が必要である。
意思のあるところに責任はある。
意思のないところには、責任がない。
責任者は、責任を持って問題の解決を図ることを期待されている。
無意思の責任者には、問題を解決する力はない。
死刑執行人は、殺人罪に問われない。
彼らは、殺意がないからである。彼らは ‘頼まれ仕事’ をしているのである。学校長の仕事もそのようなものなのであろうか。
日本人には、意思がない。
意思は、未来時制の文章内容で、日本語には、時制がない。
だから、日本人には、意思がない。
非現実 (過去時制と未来時制) の文章内容が表現できなければ、際立った個人差は出ない。どんぐりの背比べか。犬と犬の違いに終始する。
個人主義を理解することも難しい。
我が国がひっくり返った時にも、国の政治責任者は出なかった。
「責任者を出すな。犠牲者を出すな」と言う声が上がった。
意思のない人が責任を追及されることがあれば、彼はまさしく犠牲者であろう。動物愛護の精神が必要。
学校長も、そのようなものか。とかく、この世は無責任。
心のある人とは、どのような人か。
自分の感情を表現する人か。ならば、歌詠みの人か。
自分の意思を表現する人か。ならば、行動の人か。
日本人には、意思がない。だから、自分の意思を示さない。
我が国は、世界の中にあって、世界に属さず。
日本人は、無為無策で高踏的*なのか。
我々は、来るべき国際化社会に備えなくてはならない。
*高踏的 (自分ひとり高いとしているようす。おたかくとまるようす。)
確かに、日本人は意思がなく(意思を表明せず)、責任を取らない(他人のせいにする)ところがあります。
あと、私のように、批判ばかりするのも日本人の特質かもしれませんね。
私もこの問題に関しては、英さんと全く同意見です。タイトルの「馬鹿な」は彼にふさわしい形容詞ですし、さらに「あまりに短絡的な」とか「幼児的性格の」という言葉もつけ加えたいぐらいです。
英さんの挙げた4つの論点は、どれもその通りだと思います。特に、罰を与えて校長に鞭を加えれば、事態が好転するだろうと考えるレベルの低さと浅はかさは首長には全くふさわしくないもので、本当にリコールしたいと思えます。県知事としてやるべき仕事は、教育環境が他県と比べて劣っていないのか、国語の教育が効果的なものになっているのか、等を調査、確認し、不備なものがあれば、それを補うよう関係各所に指示を与える、というものでしょう。あるいは、国語の学力向上に向け、その具体的対策を教育委員会に提出を求める、というものも自然だと思います。
また、当然のことですが、学校というところは国語だけを学んでいるところではありません。他の教科もありますし、人格形成や社会への適応といった、小学校では教科よりも重視すべき目的もあるわけです。言うなれば、たかだか国語一教科です。ところがその出来が悪かったと言って、校長やその小学校全体の教育や努力をすべて否定してしまうかのような今回の措置はあまりにもナンセンスで常識はずれです。県知事のプライドが傷ついたのかもしれませんが、あまりに人間の器が小さく、教育がわかっていないと言わざるを得ません。結局平均点以上の小学校の校長名を公表する、という結論となりましたが、本当に子どものけんかを見ているようで、静岡県民として悲しくなりました。もちろん、県知事一人が子どもなわけですが。
また事前に、この学力テストの点数は参考のために出すものであって、それによって児童や小学校や校長や教員が評価されるという条件はなかったはずです。もし出来が悪ければ校長名が公表されるとわかっていれば、小学校としても当然その対策を行っていたでしょう。それが突然のヒステリックなご乱心によって、校長名公表となっては、学校側教員側としては、それはないだろう、完全に騙された、と怒っているはずです。
この非常識で低レベルな発言によって、県知事はご自身の首長としての資質と見識の低さや人間的な器の小ささも全国に知らしめてしまったわけなのですが、本人には全くその自覚がないところがさらに問題の深さを表わしていると言えるでしょう。このあたりは某大阪市市長と全く同じです。
最後に静岡県民として、一応事情をご説明しておきます。川勝氏は二期目なのですが、彼の悪評は一期目に当選する前から良識ある県民の間では有名で、特に人間的資質には疑問符が付けられていました。しかし、相手候補はさらにしょぼい人間であり、どちらが最低でないか、という選択をする選挙の末に当選したのが川勝氏です。しかし意外なことに、一期目は無難にそしてある程度の成果を上げて安定的に知事としての務めを果たし、新鮮味のある発言や施策も行っていたため、自然と二期目の選挙では支持が集まり、意外なほどの圧勝で当選したという経緯があります。今までは隠されていた悪い性格が出てしまったという感じで、県民も突然のことで驚いているはずです。静岡県民は73から82ぐらいの割合で、今回の知事の発言は支持していません。今まで粛々と県政をこなしてこられたのに何故?というのが正直な気持ちでしょう。
この発言を評価する人もいるのは、学校全体に対する批判や不満を持っている人たちが一定の割合で存在するから、とか、悪いのは責任者である校長だろ、とやはり短絡的に考える人がいるからだと思います。
最後に、学校ごとの学力というのは、特別な対策や努力をしなかった場合、都市部や山間部などの地域差が当然表れてくるものだと思います。家庭の教育環境という要素も無視できません。それもすべて校長の責任とする今回の発言にはやはり違和感を禁じ得ません。責任を問うなら、すべての小学校全体が負うべきですし、その状況や環境を放置していた首長の責任も重いことを当然認識すべきでしょう。長文失礼しました。
実に明晰なコメントで、敬服します。私の書いた本文と差し替えたいくらいです。
「この知事を選んだ静岡県民の常識も疑いたくなる」は書き過ぎたと反省していますが、半分以上本音です。ごめんなさい。
ただ、これは、静岡県知事だけでなく、衆議院、参議院選挙での結果に落胆し続けているという因もあります。
しかし、今回、この理事の発言を検索する際、エスカルゴさんが仰った「相手候補はさらにしょぼい人間であり、どちらが最低でないか、という選択をする選挙の末に当選」という状況を目にしました。それを知っていただけに、私のあの表現は失言に近かったと反省しています。(「失言に近い」とぼかすあたり、往生際が悪いですね)
ところで、今回の校長名の公表においての世論はと言うと、「学校ごとの成績を公表すべき」という意見が確か6割を超えていたという事実に、私は落胆しています。
今回のコメント、それに『半沢直樹』の記事を読んで下さったことに、感謝します。
なんてのは全く話にならない。教員は「子供の学力は家庭の経済力に比例します。我々がそれを変える事はできません」とでも言うのか?じゃあ何で莫大な税金盗んでるんだ?となる。
「学校に求められるのは学力だけなのか?」とあるがそんなものまずは学力が確保されてからだろ。
「静岡県民の皆さん、さっさとリコールしてはいかがでしょうか?」バカが口出すな
理想(公教育の理念)と現実(家庭の経済状況など)の折り合いが難しい面もありますが、知事が分析と考慮が欠いているのは残念ですし、困ります。
過去のことを思い出し、ここに来ました。
当時教員でした。
そして、当時の静岡県では
全国学力状況調査のための練習や学習を
「してはいけない。」
とのお達しを素直に守って何もせず臨みました。
ところが、上位の県は何度もそのテストの形式を
練習していたそうです。
普通の教科書や授業では到底出会わない問題形式と
膨大な量、センター試験のようにめくって見る問題用紙。
大人だって一目見れば閉口する内容です。
未経験の子にはハードルが高すぎます。
結果、芳しくない成績で知事の教師が最低発言。
次の年からは授業を削ってせっせと練習するようになり
順位は回復しましたがそれだけです。
今でも悔しく、どうしてこの知事が再選されるのか
全く理解できません。
>またあの知事がひどいことを言っている
御殿場市を揶揄した件ですよね。
>当時教員でした
そうですか、現場で、知事に振り回されたのですねか。何と言えばいいのでしょう…「気の毒」という言葉では済まされないですよね。
そもそも、この学力テストの意義を全否定はできませんが、あまり意義を感じないです。弊害も多いですし。
点数を上げるために、試験の監督者が、間違っている個所の付近を机をトントンと指で叩いたという話も聞きました。
>どうしてこの知事が再選されるのか 全く理解できません。
ええ、この記事から8年も経っているのに、まだ、知事でいるのですね。
当時は2期目で、4選を果たしているようですね。政界では顔が広く、研究者としても業績を上げているとか……
人徳と学力とは〇例しない例ですね。
この記事に関しては、あるUnknownさんに、「バカが口出すな」と叱られました。
その人のコメントは、人の上げ足を取る類の者でしたが、
>「学校に求められるのは学力だけなのか?」とあるがそんなものまずは学力が確保されてからだろ。
と書かれたことは、」ずっと心に引っかかっています。
友人の教師に、一度、どう考えているのか、訊ねてみようと思います。(コロナが落ち着いてから)
コメント、ありがとうございました。
> 公教育は生まれによらず全て子供に一定の学力を保証する仕組みなのだから「一般...... への返信
まずUnknownさんの無知に対して前提条件を共有する所から入る訳ですが、日本は先進国の中でも家庭に掛かる教育費の割合がかなり高いです。(戦後アメリカを復興モデルにしたのが大きいでしょう) 何故かと言えば、手広く手厚く教えようと範囲を設定するものの、その実一クラスの人数の多さ、クラス内のイジメや部活の顧問など教師の負担により必要最低限しか学校で教えられず、塾に通えない子どもは取り残されてしまうからです。 つまり、Unknownさんが言う日本の教育機関で一定にした学力を、更に引き上げるには各家庭の経済力が大前提な訳です。
そして晒し上げの件ですが、心理学において飴と鞭の使い方で、鞭は特に気をつけなければいけないのは常識です。ミスに対して罰則を課すとそれを隠蔽する土壌が出来上がってしまい、コミュニティ全体の生産性が落ちます。(日本の行政機関にもよく見られますよね)
ましてや数字で順位付けをすれば、どこかが一位になって、どこかが最下位になるのは当たり前です。それを印象のみ受け取って不名誉だとして校長の名前を晒し上げる事には、デメリットは保証されてるけどメリットが何も確約されない愚かな行為でしかありません。
何故最下位なのかを見ようとせずの丸投げ(しかもモチベーションを下げうる最大のやり方で)なのですから。
学校に求めるものはまず学力というのも、僕は同意しません。歳が近い同志たちと、人格形成と思考プロセスを鍛える環境だと思っているからです。
まぁでもどうせ聞く耳持たないでしょうし、これは僕自身の意見でしかないので流してもらっていいです。
あまりにもアレなコメントだったので横槍を入れざるを得ませんでした。バカって言った奴がバカ、を大人になってもやっているところが相当ですね。
>まずUnknownさんの無知に対して前提条件を共有する所から入る訳ですが、日本は... への返信
通り菅井さん、記事へのフォロー、ありがとうございます。
静岡県知事は、その後もいろいろ活躍?されていて、私も今年の4月に記事を書きました(「川勝静岡県知事……学力・学歴があっても頭が良いとは限らない例」……リンクを張ればいいのですが、以前、リンクを張ったら、ブログ運営から問題児?と自動的に判断されたので、以後、リンクを張らないようにしています)
さて、Unknownさんのコメントですが、自分の主張だけおっしゃり、詳しいことは省いているので、理解できない部分もありました。
学力と経済力の関係は、どちらが先かという問題もあり難しい問題です。それに、経済がどの程度学力に影響を与えるのかも不明瞭です。ただし、貧困家庭の子どもが勉学に関しては、相当不利なのは間違いないです。
その意味でも、知事の責任は大きいと思います。
晒し上げの件も、通り菅井さんと同様に考えます。この川勝・元知事に限らず、部下や下位と見ている関係者に、叱咤・叱責する知事が多いことか。
Unknownさんもこの元知事と同じ輩(やから)の匂いがしました。ご本人かもしれません(笑)
>学校に求めるものはまず学力というのも、僕は同意しません。歳が近い同志たちと、人格形成と思考プロセスを鍛える環境だと思っているからです。
同感です。
(昔のことを良く思ったしまう傾向がありますが)昔は、特に意識しなくてもそういう仕組みや思想があったと思います。
今は、権利を主張するだけの傾向が強いので、教育現場も大変です(まあ、問題がある教師も多い気が…)